奪われた過去
「……厭!……でも、わたしは逃げられますね。緒方さんの足はまだ痛いんですよね」
ゆかりは立ち上がったらしい。
「何年も前のことですが、或る女性に、そう、云ったことがあります」
緒方は紙コップの液体を呑んだ。ゆかりは腰を下ろしたようだ。
「……十年前?」
「そんなに前じゃなくて……六年前でしょうか。そのときの相手は黙っていました。当然ですよね。どうぞしてください、なんて云うわけがない。したければ黙ってさっさとすればいいんです。その女性の部屋の中に二人きりで居て、僕は手も握らずに、さようならでした。その後、彼女には会っても、そのときのことには触れることもなかった」
緒方は酒を呑み干した。呑みにくい部分が極めて少なく、かなりワインに近い印象で、爽やかだった。彼が云ったことは嘘だった。本当は口づけをした。
「……」
「本心は、そんなことはしたくなかったような気がします。本当はことばで、お互いの気持ちを、ことばというものだけで、確認したかったような気がするんです。ところが、まるで不本意なことを云ってしまった」
急に風が出て、頭上の樹がざわめいた。
「私もしたいなんて思ったこともないし、その点で私たち二人は似た者同士なんですね」