奪われた過去
「藪漕ぎ中に飛ばされてしまいました。少し上流になりますけど、その辺りに目立つ梱包紐を結んでおきましたから、明日、戻って探してみます」
「無理でしょう。その足では」
「そうですが……ありがとうございます。こんなに親切にして頂いて……」
緒方のまぶたから、涙が落ちそうになった。
「足が良くなることを祈っておきます。おやすみなさい」
「ありがとう……会わなければ良かったとは、思っていませんね?」
涙声になり掛けていた。それに対する回答はなかった。寂しさが胸を刺した。
「佐井さん!僕はあなたとの結婚を夢見ています」
空腹感が去ってみると、また睡魔が来た。改めて食事を供給された礼を彼女に述べなければ、と思いつつ、眠りの中へ溺れ込んで行く。
十五階建てくらいのビルの、屋上に居る。金網に顔を付けて地上を見下ろしている。風が強い。太陽光線が首筋を熱く焦がしている。遠く、蒼い山々が連なっている。夢だと判っているし、何度も見ている夢なので、緒方は退屈だと思っている。結局はそこから堕ち地上に叩きつけられる直前に、夢から醒めることになっている。夢に、苛立っている。もっと興味深い夢を見たい。せめて知っている人が現れると良いのだが、と思っている。フェンスを越えて、緒方は飛び降りようとしていた。驚いている地上の人々と、視線が合う。
希望どおり、その中に知っている人物の顔を発見した。幼い頃時々けんかをしていた、すぐ隣の家の幼馴染の少年だ。小学校の一年生だったときの先生も居る。かなり高齢だった、優しいおばあちゃん先生。それから、中学の国語の男の教諭が、緒方を見上げながら云う。