奪われた過去
「そうです。でも、まだ五時間は経ってないと……佐井さんの会社は……」
「……正論出版です」
そう云うと、娘はそこを離れた。
「そうでしたね。失礼しました」
人の気配が消えたので、ひとりごとを云っている気分だ。
緒方は考えている。今、最も重要なことは、明後日の朝、出社できるかどうかである。無断欠勤はしたことがない。初犯なら叱責されるだけで済んでしまうのだろうが、社員としての信頼度は激減する。そうなれば今後は、有給休暇はないものと思うべきだろう。
佐井ゆかりの顔を見たい。そのためには、眼鏡が必要だ。朝になったとき、この足で探しに行けるだろうか。
「レトルトですけど、どうぞ。熱いから、気をつけてください」
少しうとうとしていたらしい緒方は、その展開に驚いていた。カレーライスの食器はアルミニウム製で、折りたたんだタオルの上に載せられて来た。福神漬とスプーンは、もう一つの食器に入れられて、水と一緒に後から来た。胸に熱いものが生じていた。
「ありがとうございます」
もっと深く、感謝を表すことばが欲しいと思った。
「足手まといになるのは気が引けるので、明日は先に出発してください」
「そんなこと、できませんよ。ところで、眼鏡は?どうしたんですか」