奪われた過去
やわらかい水の音が聞こえている。流れの中のゆかりは動かない。
「こちらは滑って足を傷めました。だから、わかりますよね。忠告をさせて頂きました」
「朝までここに居るつもりですか?」
「歩けるようになったら、下山したいんですけど……」
「だめよ。そんなこと云ってる場合?」
電話とは少し違うのだが、爽やかで優しい声だと、緒方は思う。確かに、何とかして下山しなければ……。
「眩しいんですが……何時間歩くと辿り着きますか?」
「ごめんなさい。ええと……はっきりとは云えませんけど、五時間以上でしょうね。頑張ってください」
光の向きが変わった。改めて、特徴のある声だと、緒方は思った。抑揚があり過ぎるということはないものの、幾らかわざとらしく情感を込めているようにも聞こえる。
「こんなにバカな男と会ってしまったことを、後悔してますか?」
少しずつ、光が接近して来た。懐中電灯の光は、微かに緑色をした大きな岩を照らしている。若い女性は、応えるべきか否か、迷っている気配がある。
「湿布しますね。少しでも早く手当しないと」
一メートル半程度離れた相手の姿が、緒方の眼にぼんやりと見えている。上下黒の登山服だったことを、緒方は思い出した。顔は判らない。どんな顔だっただろうか。