奪われた過去
声の感じから、その女性の推定年齢は三十代半ばだと、緒方は勝手に思っていた。彼は現在二十六歳なので、大体十歳近く離れているかも知れないのだが、緒方はそのひとに惹かれていた。
必要な連絡が済むと、雑談になり、出版社の女性はやや遠慮しながら緒方に訊いた。
「失礼かも知れませんけど、中谷慎一っていう作家はご存知ですか?」
「その名前を聞けるなんて、嬉しく思います。大ファンなんですから。いつだったか、その人をテレビで見ましたけど、謙虚な人だなあと感心しましたよ」
「そうですか。わたしはね、その作家の文章が一番好きです」
「僕もあの作家の、さりげないけど深い味わいを感じさせる文章が好きです」
「難解な文章を書きたがる作家が多い中で、中谷さんはそうじゃないでしょう。だから好きなんです」
「同感ですね。表現は平易だけど、書いてあることは本当に深いんです。そこに惚れましたね」
「そうですか。嬉しい……この熟語は知らないだろうって、読者に挑戦状を叩きつけるみたいな作家が多いでしょう。いやですね。そういうのは」
「見たこともないような漢字が並んでいると、ちょっと慌てますよね。自分が不勉強なだけだと、納得させられる場合が多いですけどね。でも、辞書がないと読めないような文章は、書きたくありません」