奪われた過去
声に恋して
烏口の先が摩耗して線を引きづらくなったため、緒方邦彦は一時間掛けてオイル砥石で研磨し直したのだった。そのあとで彼は航空貨物時刻表に、罫を引き始めた。時刻は午後六時。彼のほかに、社員は誰も残ってはいなかった。
既にペーパーセメントで、ケント紙の台紙に横長A4の印画紙二枚を、隙間なく上下に繋いで貼り着け、縦長A3サイズにしてあった。そこにびっしりと、写真植字に依って発着時刻を表す細かい数字が並べられていた。それらの数字と数字の間に、製図用インクを含ませた烏口を使い、極細の罫を引いて行く。
左手は、二枚の三角定規を押えている。左側の定規は固定し、罫を一本引き終わる度に、右側の定規を四ミリ程度、左側の定規に接したまま下へずらす。太さ一ミリの十分の一の罫を、また左から右へ定規に沿って、一気に引く。出来上がれば各升目の中央に、細かい数字が並ぶ時刻表となる。
緒方は航空貨物の時刻表の罫引きを七時半に完成させたあと、銀行の預金商品のパンフレットの、印刷原稿を作成していた。苦労して漸くそれができ上がった午後九時に、取引先の或る出版社の女性から電話が入った。佐井ゆかりという名の彼女は、仕事上の用件を遠慮がちに伝えた。或る雑誌に連載中の随筆の原稿が遅れて入ったので、申し訳ないのだが明朝九時に、取りに来て頂けるとありがたい。そのような内容だった。