奪われた過去
だが、このように巨大な一枚岩でクライマックス、という話は聞いたことがない。引き返すとなれば、あの、砂の急斜面までが二時間以上、或いは三時間かも知れない。すっかり暗くなってから、あれをまた横切るというのも気が進まない。軽い頭痛の始まりを、緒方は覚えた。
「疲れを感じました」
「同感です」
林道からの、高さ百メートルの垂直の黒い壁。緒方が見上げるのをやめたのは、首が痛くなってからだった。
「僕はここから沢に向かって一気に駆け降ります。水が流れる音が聞こえますからね」
「随分戻ることになりますけど、右側に下りる細い路がありました。そこまで戻れば沢沿いの路に出られると思いませんか?」
「そんな路があったような気がします。でも、そこまで戻るというのは気が進みませんね。一時間くらいは戻ることになりますよ」
幸福というものは、苦労して手に入れるべきもの、という既成概念がある。緒方はここで折れたなら、後悔することになりそうな気がしている。なぜそんなことを思うのか、彼は自らが理解できない。