奪われた過去
「そうでしたか!ゆかりさん。ですよね?」
「ええ、あなたが……緒方さんだとは、判っていました」
「そうですか?でも、佐井さんは、実家に行くって云ってたじゃないですか!」
「そうですよ。今、実家に向かっています」
「今向かっている?この道の先に、佐井さんの家があるって云うんですか?」
「温泉旅館がわたしの実家です。この方向から行くのは初めてですけど」
現在の緒方には恋人はおろか、親友と呼べる存在もない。それは、自らの怠惰な部分を証明しているような気もする。今、この女性を恋人にしたいと、緒方は痛切に思っていた。
路が上りになり、狭くなった。俄かに息苦しさを覚えた。その辺りには、花の香りが停滞していた。更に行くと、それはもっと濃密になって行った。色とりどりの花々が、庶民的な家が十軒程度建つ広さの平地に密集していた。異様な賑やかさ。ほんの少しも風は吹いていないので、全てが静止している。紅、ピンク、黄、橙、白、紫。背の高いものから地を這いながら咲く花まで、大小様々、多種多様の花たちが、そこに密生していた。
しかし、単に美しい自然の風景とは、呼びにくい景観である。なぜなのだろう。夕暮れの前という時間帯だからなのか、野鳥の声もない。無音、香りと、色彩だけの空間。