奪われた過去
昨夜泊った山小屋には、佐井ゆかりらしき中年女性が居た。上はグリーン系のチェックの登山服だった。髪は肩の辺りまで。ひっそりと文庫本を読んでいた。すぐ傍に、ほぼ同年配の女性がずっと居た。無関係のようにも思われたが、緒方はひどい動悸のために話し掛けることはできなかった。正直なところ、どちらにしても幻滅に近いものがあった。やはり、自分と同じくらいか、または少し年下の方が良いと思った。
林道のようなやや広い路になった。もう随分暗くなっているが、路の中央の大きな穴には気付き、避けて通った。穴の三メートル下は枯れた沢だった。つまり、そこは蔦のような植物や丸太などで作った橋だった。土や砂利が覆っているので、橋には見えないのだった。落ちた場合のダメージは想像したくもないと思った。
今隣を歩いている黒装束の女性が、実は佐井ゆかりなのかも知れないと思い始めた頃には、更に暗くなっていた。この女性の声は、普通の若い女性よりも落ち着いている。見た目からは、想像もできない声の持ち主なのだった。こういう声はそう滅多に聞けるものではないと、緒方は思った。名前を聞いていないことに気付き、緒方は確かめることにした。
「僕は緒方邦彦です。そちらは?」
「佐井です」
緒方は驚きのあまり叫びたいような心境だった。