奪われた過去
黒装束の若い女性登山者は、途中何度か砂に足を取られながらもゆっくりと緒方に近付いて来た。ずっと、凝視め合っていた。最後は緒方が手を伸ばし、女性のやわらかい手を取った。渡り切ったとき、緒方は女性の身体を抱きかかえた。
「ありがとうございました。何かお礼をしないと……」
若い女性は目を潤ませていた。
「じゃあ、あとで地図を見せてください」
「はい。それだけでいいんですか?」
「そうですね。考えておきます」
緒方はザイルを頼りにまた斜面を横切って戻り、ザイルを解いて持って来た。
迫りつつある夕暮れの兆しが、シラビソの森に入ると色濃く感じられた。緒方は佐井ゆかりと、どこかですれ違っているのかも知れないと思っている。但し、砂の急斜面の傍に居た、この女性では勿論ないと思う。
「山へひとりで来る女性は、珍しいですね」
「そうですか?案外多いのかも知れないと、思ってました」
「単独行は何度目ですか?」
「初めてです」