奪われた過去
これは想像してのことなのだが、見えない谷底から、緒方が立っている場所までの高さは、超高層のビルを優に超えるものと感じている。高所恐怖症の緒方にとって、その現実は過酷なものだった。しかし、これから長く続く人生の苛酷さは、こんなものではないだろう。この程度のことで怯んでいるようでは、この先五十年、六十年という長丁場を、生き抜いて行くことはできない。
「頑張ってください。でも、気をつけてくださいね」
樹の幹にザイルを縛り着け、女性の声援の声を背後に聴いた緒方が砂の上に足を踏み出すと、俄かに強風が立ち、掴んでいるザイルがブーンと鳴り出した。歩き出すと、それが更に大きく揺れ、不安は抑えようがない。
靴が砂に埋まり掛けて重い。横滑りした。ザイルは余り頼りにはならない。動悸に苦しめられている。難関は縦に並べた車五台分程の距離である。数分間の修羅場だった。それをひどく長く感じながら、彼はどうにか踏破した。緒方はザイルをその先の樹に縛り着けた。砂の斜面を挟んでザイルで橋渡しをした形になった。砂の斜面のこちら側に、ザイルを握っている緒方が居た。
「これに捉りながらだったら安全です。絶対に下を見ないで、まっすぐ僕を見ながら歩いて来てください」