奪われた過去
「目が覚めましたね。わたしも居眠りをしていたみたいです」
微笑んだ黒装束の女性も、本当に倒木の上で居眠りをしていたらしい様子である。目立つ美貌の持ち主ではないものの、バランスのとれた顔で、十人並み以上と云えるだろう。どうしても相手の年齢が気になる。緒方より幾つか年下だろうか。
彼は電話で時々話をする出版社の年上の女性に会いたかった。そのひとは実家に行っている筈だが、気まぐれを起こしてこの山に来ることを、緒方は期待していたのだった。彼はその声に、自らが恋をしているような気もしていた。
砂の斜面を見ると、人が横切った形跡は認められなかった。少しでも刺激すれば、砂の帯が一気に流れ落ちて行きそうな急斜面。こんなところを横断して行くような、粋狂な人間も珍しいということだろう。
地図がまだ手元にあったとき、南下して行けば温泉とバスの発着所があることは確認していた。そこで知り合いの女性に逢えるかも知れないという予感があった。緒方は方向を知るための磁石を持っていて、それを頼りに動いて行くことにした。
さし当たっての難関を克服するために、必要なものは勇気、或いは度胸だと思う。合掌造りのあの、茅葺き屋根の角度を思わせる急斜面を横切るというのは、穏やかではない。