イドの水底に映す
ごみでも入ってるのかな? と妹は無邪気に首をかしげた。私は内心それどころではなかった。やはり血がつながっているからなのか……私が知りたいことを、まさか聞かれるとは思わなかった。でも、なんと答えよう。嘘は教えたくない。でも、本当のことなどいえない。井戸の中には、お母さんがいるのよ、なんて。一人悩んだ私は、一般的な話を口にすることにした。
「そうね……よくある話では、宝物が埋まってるって聞くわ。後はねぇ、物騒な話だけれど……死体が入ってるともいうみたい」
へえぇ、と妹は瞳を輝かせながら話を聞いている。無邪気なのが怖い。でもさ、と天音がいった。
「お姉ちゃんが、見たわけじゃないんでしょ? わたしものぞいてみたことがあるけど、真っ暗で何も見えなかったよ。一体誰が中をのぞいたのかなぁ?」
本当に。いったい誰がこんなことをいいだしたのだろうか。宝物はわからなくもない、見てみたいな、と思えるもの。でも……死体なんて。見つけても何もいいことはありはしない。人を怖がらせるだけの逸話なのだろうけれど。
「それがよくわからないから、色々な話があるんでしょうね……。さ、変な話はおしまい。次は何をする?」
私は話を打ち切って、天音にそう聞いた。ちらばったカードを集めて、箱へと戻す。片づけている私を見ながら。
「次は……TVゲームでもやろうかな。あ、学校の宿題があったような気がする」
「それじゃあ教えてあげるから、ゲームは後回しにしなさいね」
トランプをしっかりと戻してから、私は妹を部屋へと連れて行った。めんどうくさい、と呟きながらも、足取り軽く階段を天音がのぼっていく。誰かと一緒に勉強するのが久しぶりなのだろう。本来は母がよく教えていたから――――母さんの分まで、私が面倒みてあげないと。
もう、いないのだから。
そうして、日が沈んで暗くなるまで、私は妹に勉強を教えていた。
夕食の支度をしようとしていると、兄が帰ってきた。学校の用事はすんだらしい。鞄を部屋に置いてくるなり、てきぱきと夕食を作り始めた。こういうのはなんなのだけれど、兄のほうが全体的に私よりも行動が素早い。やることなすこと、全部。下ごしらえをしかけていた台所を見て、私が作ろうとしていたものがわかったらしい。そのまま、進めてしまう。
そうなるとたいてい私は、食器を並べたり、兄が準備したものを調理したりする。ソファの上では、天音が漫画を読んでいた。目はページを追っているが、なんとなくつまらなさそうに見えた。
二人で調理を進めていると、漫画から顔をあげて天音が言った。私は、材料を炒めている真っ最中だった。じゅうじゅうと音がしていたのに、やけにはっきりと聞こえた。
「ねえねぇ、お兄ちゃん。井戸の底にはさ、何があるか知ってる? 底っていうか、中なんだけど」
隣で食材を切っていた兄の手が、刹那止まった。
「……さぁ、知らないな。何があるんだ?」
そういうと兄は再び手を動かした。すぐに、トントンと小気味いいリズムが戻ってくる。私は、何も聞こえないようにと祈りながら、わざとフライパンを音をたてて動かす。
「あのね、井戸の底には、死体があるんだって! すごいよね」
そうか、という兄の声はいつもどうりで。でも、その目はとても鋭利な輝きをしていて。冷たくて、まるで剃刀のようだと私は思った。
「そんな話、誰から聞いたんだ? クラスメイト達が話してたのか?」
「ううん。お姉ちゃんから聞いたの。よく、そういわれてるんだって」
ねっ? と背後から天音に同意を求められて、私は困った。ええ、よくあるわよね……妹にそう返しながら、傍らで食材を刻む兄から、強い視線を感じていた。見られている、と思った。同時に、気付かれた、とも。フライパンの中の食材から、かすかに焦げた匂いが漂ってきていた。私はなにくわない顔を装って、火を止めて食器へと盛り付ける。やっぱり、少し黒くなってしまった。お姉ちゃんが焦がすなんて珍しい、といいながら妹がのぞきこんでいる……私の中を見られたような錯覚があった。
「天音、見てみたいのか? 井戸の中」
何かの食材を調理しながら、兄はそういった。意味もなく、心臓がどきどきして息苦しいと思った。兄の問いに、妹はそっけなく答える。
「ううん。のぞいても真っ暗で見えないし。明るくたって、別にみたくないかな。中に入りたくもないもん」
なんだかすっごくジメジメしてそうだから……と天音は言った。妹の言葉を聞いて、何故か安心感を覚えた。ただ、何があるのか気になっただけ、と妹は付け加えた。
「確かに、何があっても関係ないだろうな。自分が殺したわけじゃあないんだから」
出来上がった料理を皿に盛り付けて、兄がそういう。少しだけ、笑ったような声音で。
嘘。
ねえ兄さん、それは嘘でしょう? だって、確かに私は見たもの。あの夜の影絵を。家には他の人なんていないんだから、見間違えたりはしないわ。母さんも……いないのだし。
「雫音は?」
そう聞かれて、私は一瞬、何を聞かれているのかわからなくなって、呆けた。きょとんとしてたか、ぽかんとしてたか……口が少し開いてしまったのは事実だろう。すぐに井戸の事だと気づいて。
「私は……うぅん、ちょっとだけ。ちょっとだけ、見てみたいかもしれないわ。普段見ることができないでしょう? 落っこちたくはないけれど……兄さんは?」
自分が殺した死体があるかもしれないところを、覗き込んでみたい?
余計な言葉を口から滑らせないようにしながら、尋ねた。少しだけ怖くて、少しだけわくわくした。
「――――俺、か。井戸の底なら……見てみたいかもしれないな。ろくなものじゃないだろうが」
私も、井戸の底は見てみたい。兄さんのイドの底も見てみたい。心がざわざわと波立った。ゆらゆらと波紋が広がって……何が映るのか。
たぶん、私はぼうっとしていたのだろう。冷めないうちに食べるぞ、という兄の声で我に返った。
「そうね……いただきます」
その日の夜は、なかなか寝付けなかった。
兄が井戸の話をしてから数日間、霧雨のような雨が降り続いた。三日ほどでやんで、天気はもとに戻った。雨が降った後だからか、空が高く、澄んでいた。無数の星が瞬いていて、とても綺麗な夜だった。
私は夜も遅いというのに、自室でぼんやりと空を眺めていた。兄は部屋で勉強でもしているのだろう。妹はもうとっくに眠っている。今日は遊んできたようで、疲れていたからぐっすりだろう。
透明だけれども吸い込まれるように深い空を見ていて、私の中はあんなにも澄んでいない、と思った。きっと、どんよりとしているに違いない。色々なものが渦巻いているから。
とりとめのないことを考え続けていると、扉をノックする音が聞こえた。ベッドから降りて、鍵をあけると、そこには兄が立っていた。
「まだ起きてたか。星がすごく綺麗だ。庭にでて見ないか? きっとよく見える」
星なら部屋からでも十分に見れたけれど、私はうなずいた。部屋の空気がよどんでいるような気がしたから。外は、気持ちがいいだろう。
うすいカーディガンを羽織ってから、庭に出た。