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イドの水底に映す

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 頭の中はぼんやりと。心の中はざわざわとさせながら、庭を歩く。前を行く兄の足取りはしっかりとしていて、迷いがない。前を行く兄の背を見ながら歩いて、気付くと、井戸のすぐそばへと来ていた。
 きれいだな、という兄の声は、私の耳を素通りしていった。そのくせ、心に波紋だけは残していった。
空を見上げて、その次に井戸の中をのぞきこんでから、兄が言った。
「水が残ってたなら、星が映って綺麗だろうな」
「水がにごってたら、見えやしないわ」
 私の水底は、全然見えないもの。にごりすぎて、淀みすぎて。底が、見えない。ないのかもしれない。だからこそ、見てみたいのだけれども。イドに波紋が広がる。兄の言葉一つ一つが、石のように奥深くへと沈んでいく。底は……見えない。
 まるで夜の静寂のように、無言の時間が訪れた。自分の鼓動がひどく響いて、うるさかった。沈黙を破ったのは、碧也だった。それはたった一言で。それでも安定を崩すには十分で。
「見たのか?」
 こちらを振り向きながら、投げかけられた質問。答えることは簡単だった。でも、私は肯定も否定もせずに、ただ黙っていた。沈黙こそが、肯定のようなものだったのだけれど。何も言えず、まっすぐに兄の眼を正面からみた。黒い虹彩の奥は、濃くて見通せない。
 ふいっと、私から顔をそむけると、兄は空を見ながら言った。
「俺、もう少ししたら学校をやめて、就職しようと思ってる」
 私が働くのになんで? なんていえない。私はおそらく、もうじきいなくなるのだろうから。
「そう。見つかるといいわね。頑張って」
 なんてからっぽな言葉なんだろうと思った。でも、兄が働くなら、妹は大丈夫だろう。二人きりだろうと、一人でないなら暮らしていくこともできるだろう。
 いつのまにか振り向いていた兄が、じりじりと近づいてくる。私は、ゆっくりと後ろへと下がる。すぐに、硬い感触を背中に感じた。あぁ、井戸がある。あぁ、私は殺されてしまう、と思った。
「井戸の中身が、知りたいんだろう? なら見てくればいいさ。そうしていつか、俺に教えてくれよ」
 そういうと、兄は私を突き飛ばした。いや、軽く押した、という方が正しいのかもしれない。それほど力は入っていないだろうに、私の体は穴へと向かって、ぐらりと傾いていく。それはスローモーションの刹那。
 わたしは、にいさんになら ころされてもかまわない
 そんな思いが一瞬頭の中をかすめて……泡が、はじけた。
 私のイドから次々と浮かびあがり、消えていく。
 一人で死ぬのなんていやだ。怖くはないけれど淋しい。私はただ見ていただけなのに。だれにも言ったりはしないのに。兄と妹が二人きりで暮らしていくなんて。妹だけが可愛がられるなんて。私の方が、天音よりもさきに生まれているのに。
 敬愛なのか、独占欲なのか。醜いみにくい感情が、はじけて爆ぜて、水底を揺るがしていく。その小さいけれども大きい波に飲み込まれて、私は――――兄の腕を引いた。
 体を傾けながらだから、ほとんど力は入っていないはずなのに。まるで、私のように兄の体がかしいできた。
「一緒に落ちましょう。深い、深い底まで。兄さんも見たいんでしょう?」
 不意をつかれた兄の表情が網膜に一瞬で焼きついた。そして、二人で井戸の中へと落ちていった。


 もしかしたら、底がないんじゃないか。そう思ってしまいかけた。
 永遠に落ちていくような錯覚が一瞬か、ずっとか、続いていた。でも、途中で鈍いような鋭いような衝撃を体に感じたから、底はやっぱりあったのだろう。水でもあれば、楽だったのかもしれないけれど。意味もなく、そんなことを考えた。
 夜空の星の光も、真昼の太陽の光も届かない、暗くて深い井戸の底。たぶん、私の上か、下か、右か左か。兄もいるのだろう。私がわがままで連れてきたのだから。今、あの家には妹一人だ。これからずっと。本来はしてはいけないことをしたのだろうけれども、罪悪感はなく。むしろ、兄と一緒……独占できたということから、優越感さえ感じていた。
 暗闇の中に、焼きついた兄の表情が現れては消え。妹の笑顔もうっすらと浮かんで。微かに、母の顔も。あぁ……今この中には、どこかに母さんもいるのだろう。どうでもいい、ことだけれど。
 音もまったく聞こえず。それでもまだ微かに自分が生きているということがわかる。兄はわからない。耳が聞こえていないし、目も見えていないのかもしれない。
 私は静寂の中、開けていたはずのまぶたをおろす。深く深く、溺れていくような、沈んでいるような感覚。井戸の底から、イドの底へと移り変わっていく。
 あれだけ波だっていた水面も、今は穏やかすぎて。ゆらり、と少しずつ何かが浮かび上がってくる。それは――――幸福そうに、けれども歪んでいる、私の笑顔。イドの水底に映すのは、ほんとうの私。
 やっと、やっと底が見れた。井戸も、イドも。
 兄も見れただろうか……と思いながら、意識を沈めた。
 きっと、兄の水底には歪んだ笑みが映っているのだろう。私も同じ、人殺しだもの。
作品名:イドの水底に映す 作家名:東雲咲夜