「哀恋草」 第三章 吉野山
「なんと・・・法皇様・・・にでござったか!遠からぬ縁じゃ。わしは法皇様に葛と作蔵の炭、建て直しの杉など懇意に出入り賜うておるのじゃ」
久と光のこの地での出会いには不思議な縁が付きまとっていた。作蔵の兄一蔵とのこの日の出会いが二人にとって生涯を大きく変えてゆく運命であったことも・・・
一蔵は久からの手鏡がいたく気に入って上機嫌であった。作蔵の所にもあった五右衛門風呂のさらに大きなものが、ここの家には置かれていた。若衆が火を起こし、薪で湯を焚き風呂場は煙と湯気が同時に立ち上っていた。主と作蔵が先に入り、女三人が後から一緒に湯殿を使った。
広々とした湯殿は三人が同時に入ることも出来た。共同浴場がまだないこの当時にこうして女三人が湯を一緒に愉しむなどという事が、久には理解しがたい出来事ではあったが、その楽しさと光やみよの喜んでいる姿が、母として、姉としての喜びに感じていた。
みよは光の背中を流してやっていた。そして久に向かってこう言った。
「姉上、光も年頃、そろそろ女子が訪れましょうな・・・」
「・・・かも知れませぬな、おみよが教えてあげなされ・・・」
久はみよのことを呼び捨てにそう読んでいた。みよも光と呼び捨てにしていた。三人は母、姉、妹の区別でものを言う事に慣れ親しんでいた。
「姉上!何が訪れるのでございまするか?光に・・・」
「それはのう、ここから赤いものが出てくるのじゃ、もうすぐに・・・」
といって、大切な所を指で触った。ビックリして、光は身体を硬直させた。
「母上!姉上が・・・恥ずかしい事をいたしまする!」
「みつ、みよの言う事は本当じゃ、良く聞いておかれよ」
うなだれて、光はその後の話をみよから聞かされた。
衝撃のその時は間もなく光の身体に現れるのである。
平維盛一行を乗せた小船は福原を出て数日で紀州熊野にそっと着いた。夜影に紛れて住人に気付かれないように船を降り、水夫にいくばくかの礼をして湊から立ち退かせた。
「大将、やっと着きましてございまするな。我らが一行はすでに落人・・・ご不自由な暮らしになりますゆえお覚悟めさりますように・・・」
従者の一人が言った。一行は7人。維盛は自分と運命を共にしてくれる人選で旅立ってきた。裏切り行為とも取れる逃避行に異を唱えることもしない二人の家来とその妻子供の7人であった。維盛は端正な顔立ちとすらりとした容姿に、平氏一門の中ではその男ぶりが際立っていた。数多くの女たちが目をつけていたが、一人として維盛の目にかなう女子とは今まで出逢うことがなかった。
「勝秀はさぞ怒っていようのう・・・わしの身を一番案じてくれよったのにのう・・・そちたちの事は維盛、先の世まで忘れる事はないぞえ!」深々と頭を下げた。従者の皆は抱き合って涙に暮れた。生きることの意欲を失っている大将を励まそうと、女たちは人目につかぬところで舞いを踊り、わずかな残り酒を振舞った。弥生三月を明日に控えるまだ肌寒い月夜の出来事だった。
一行は辺りが明るくなる前に人里はなれた場所まで進むことにした。大台ケ原まで昇れば人がくる事はない。船を貸してくれた熊野水軍の頭領からいくらかの食べ物と水を貰い、何とか二三日でたどり着けるように考えていた。山道は思っていたより険しく、女子子供には辛い道のりでもあった。維盛はみんなを励ましながら、自らも苦しさに喘いでいた。
「少し休もうぞ、行く先は見えておる。妻子には辛かろう・・・」
「殿!今しばらくご辛抱を。水夫が申しておりましたお堂はこの先少しの所に迫っておると考えまする。その地まで急ぎましょうぞ」
「うむ・・・皆大丈夫か?」ハイ!との声に再び歩き始めた7人であった。険しい山道の途中に寝所となる小屋が建てられていた。修験僧達の避難場所になる所だ。いにしえよりこの山は雨や風が強く、当たり前のように落雷が起こる土地であった。人気はなく、天台宗の高僧達が時折修行に立ち寄る程度であった。
この山の向こうには吉野の里がある。作蔵が熊野まで時折通う山道を今、維盛一行が歩いている。平氏一門の重鎮維盛がすぐ傍まで来ているのだ。作蔵はもとより一蔵、久、みよ、光も知らないことである。播磨で進軍中の義経などは維盛が逃走した事すら知らなかった。
次の日の朝目覚めた光は自分の身体に異変があったことに気がついた。みよが話してくれたとおりになっていたのだ。聞かされていて良かったと素直にみよに感謝した。教えられたとおりに処置をして朝の支度を手伝っていた。後、片付けに厨に居たみよに恥ずかしそうに光は話した。
「姉上、参りましてございます。昨日の今日とその速さに驚いてしまいましたが、姉上のおかげで慌てずに済みました・・・」
「そうでありましたか!めでたいことです。姉上にも申し上げてお祝いをせねばなりませぬな・・・」
「そのような事!恥ずかしゅうございまするゆえ、おやめくだされ」
「光!女子として立派なことですぞ。恥ずかしゅうなどと思うことではございませぬゆえ」
やがて久も知ることとなり、作蔵や一蔵もそのことを喜んでくれた。その日の夕餉に一蔵は光に祝いとして笛を送った。初めて見る笛に戸惑いを見せた光だったが、口に当てて息を吹きかけると、ピー!と鳴った。鳥の声よりも甲高く、その場に居たみんなは驚いた表情をした。
「光!初めてで音を鳴らすなどきわめてまれじゃ!そちには才能があるやも知れぬな、ハハハ・・・良い贈り物をしたわい」一蔵は機嫌よくなった。久も、みよも光が急に大人びて見えて来た今宵だった。
上機嫌の一蔵はもう一晩、泊まってゆくように作蔵に話した。作蔵は素直に兄の好意を受け入れた。今宵は光は湯浴みが出来ない。みよと久が終えるのを待って、寝所で待機していた。光は一蔵にもらった笛をずっと手にしていた。音曲の事は良く分からないが自分にはこの笛を吹くことが使命であるかのような気持ちになっていたのである。
「光はほんに良いものをもらえたのう・・・」
少しうらやむようにみよが言った。
「みよ、そんな風に言うものじゃありませんよ。一蔵さまの好意に傷がつきまするぞ」
「いいえ、そのような気持ちで話したのではございませぬ。一蔵様はきっと光の器量を褒められたのだとおもいまする。それがうらやましゅう存じます・・・」
確かに、三人の中ではずば抜けて色も白く、すらりとして、長い黒髪も艶良く、目鼻立ちの整いはまだ少女でこの程度だから、大人の女になったらどうなるのだろうかと、人は見ていた。みよは久に抱いている劣等感を光にも抱き始めていた。田舎娘の自分だけがなんだか場違いに映るこの頃を、悲しく感じていたのだ。
「みよ、そのような考えは己を寂しゅうするだけじゃぞ。人はその生き方が問われるものじゃ。決して恥じることなどない立派な生き様に我ら親子が勝てるはずもない・・・光もそう思うであろう?」
「はい、母上、光は姉上を尊敬いたしておりまする・・・母と私めが受けた恩を忘れようはずがございませぬ。姉上はいつまでも光の姉上でいてくださいまし・・・」
作品名:「哀恋草」 第三章 吉野山 作家名:てっしゅう