NIGHT PHANTASM
16.哀しき祈り(2/4)
「ビアンカさん」
「うん?」
冬の日暮れは早い。夕陽が軽く傾きさしはじめた頃、アンナがふと隣を歩く娼婦の名を呼んだ。
「時間、大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気。ヒモがいたんだけど、そいつうるさくてさ。ちょっとばかしぶん殴って病院行きにしてきた」
こうしてさ、とアクションを取りながらビアンカが笑う。傷一つない白い柔肌、こう見えて彼女は喧嘩に対してかなりの実力を持ち合わせているのかもしれない。
だが、現実は残酷だ。
殺すか殺されるかのやりとりがこの後交わされるなど、予想もしていなかっただろう。そしてそのまま、彼女の全てが終わるのだろう。
「じゃあ、ちょっと遊びに付き合っていただけませんか?」
「なになに? なにするの?」
意識を保っているとはいえ、酩酊により少し足元がうわっついている事は隠せない。だが、遊びという単語にビアンカはすぐに食いついてきた。
罪はない。だが、そういった人間を処分することにアンナは胸の痛みを感じなかった。昔であれば、それが生きる理由に繋がっていたというのに。
悲しかった。
空虚で、ただ、空っぽな心の中を風が吹き抜けていた。
「私が、あの路地を歩きます」
「うん」
「で、ビアンカさんが声をかけるんです。お仕事の時みたいに」
「……ほおー。その年齢で私の魅力がわかるたあ、やるね。しかも、誘い方までなかなかにくい演出してくれるじゃない」
「やってくれます?」
「いいけど、ルイーゼちゃんは怒らないの?」
言いながら、アンナの後ろでうつむいているルイーゼを見る。ぼんやりとしていて、それはまるで睡魔と戦っている子どものようだった。
二人の会話に興味も示さず、長い睫毛を伏せ気味にして遠くの街並みを眺めている。死んだ目に、鏡の向こうともいえる世界があるかは怪しいものだ。
「では、少し話をさせてください。ルイーゼ、ちょっとこっちに」
手を繋ぎ、二人はビアンカの聴覚が届く範囲をはかりながら距離をとった。
どうにでもなれと興味のなさそうな表情をしているルイーゼに、アンナは一転して凍りついた殺し屋の目を向ける。察したらしく、ルイーゼは意識を戻した。
「消すのかい、あの娼婦」
「運が悪いわね。会わなければ、会っても声をかけなければ見逃してあげたのに」
「で、何をすれば?」
「人が来ないか見張ってて。それだけでいい、一般人ですもの。一人で片せる」
そう言って、口角を吊り上げるアンナは、悪魔そのものだった。ベルトにくくったナイフの柄を握り、血に飢えているかのようなぎらついた瞳でビアンカを見る。
そのぎらつきが夕陽のせいであれば、まだよかったものを。
「了解」
そんなことを考えながら、ルイーゼは静かにこれから起こる血なまぐさい現実を受け入れた。
まだ夕陽は落ちていない。だが、入り組んだ路地にはあまり日がささず、薄暗かった。出歩く人間もおらず、生活音も聞こえてこない。
これほどやりやすい状況もない、アンナは静かに歩き出した。前方から、何食わぬ様子でビアンカが歩いてくる。
白く美しい足を通う血も、そちら方面でのかなりの経験がうかがえる瞳も、整えられた髪も、全てがもうすぐスクラップに変わる。本当に、運の悪いことだ。
高いヒールをものともせず歩いてくるその姿は、見事ではあった。赤いルージュも、すぐに血に混じる。何も心配はいらない。
苦しめて殺そうなどとは考えていない。距離が近づくと、視線が合った。
「ぼっちゃん、こんなところで何してるの? 親は?」
「お姉さん」
「何かな?」
「お姉さん、僕を買ってよ。お金がないんだ。抱いてほしい」
「顔は悪くない。ぼっちゃん、もう少し言葉ってのを選びな。あと、同業者の顔ってのは覚えていて損はない」
「駄目なの?」
「そうは言ってないさ」
壁に背中をつけていたのは正解だった。ビアンカはこちらの誘導通り、両手を壁につけてアンナを逃がさないような体勢をとる。
こちらの両手をついでに押さえつけておけば、もう少し長く生き長らえたものを。
「お姉さん」
背伸びをして、キスをねだる仕草をすると、それはすぐに伝わった。相手がまぶたを下ろしたのを確認したと同時に、シースから刃を抜き放ち、突き刺す。
「……!?」
おそらく、痺れるような痛みではすまないだろう。心臓を貫いた刃は、みるみるうちに血に染まっていく。目を見開き、何かを言いたそうに唇をぱくぱくと動かしたビアンカの首に――背後から白いものが巻きついた。
それがルイーゼの両腕であったことに気付けたのは、その場でアンナ一人だけだった。意識を落とされ、力なく崩れるビアンカ。
生き残っていては困る。ナイフを首につきつけ、ギロチンの要領で頭と胴体を切断した。ナイフを砥いでおいた甲斐もあり、骨はたやすく折れ刃を貫通させた。
「……この日。この日に、会わなければ、よかったのに」
ナイフの血と脂を拭きながら、アンナは氷よりも冷たい瞳で無残な亡骸を見た。夜が、来ようとしている。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴