NIGHT PHANTASM
15.空の墓標(2/4)
廊下を歩いている間、ティエは考えていた。
ルイーゼとアンナにとっての帰る場所は、本当にここ一つなのか。ここを家として、帰って来てくれるのか。
そして、長い間一緒にいてくれている、愛しているあの人間もまた――。
「ジルベール。いないの? ジルベール」
「ばか。ノックくらいしろ」
「はいはい」
悪びれた様子もなく、開け放った扉をとんとんと叩いてみせるティエ。机に積まれた本や荷物を片付けながら、ジルベールは呆れながらも微笑んだ。
人間であれば見破れないであろう、一瞬の違和感。
部屋に一歩立ち入って、扉を閉めてからティエは机の一箇所を指差した。
「それ」
「あ?」
何を言っているのか真意が読めず、思わずきつい色で返事をしてしまう。本――小難しい書物に興味を抱くような吸血鬼ではなかったはずだが。
ティエは、一点を見つめたまま、そして指したまま動かない。しばらくすると、首から上だけを動かして苛立ちを含んだ視線を向けた。
「それ」
「どれだって」
「鍵」
「……え」
「見つかったのね。それ、奥の棚の鍵でしょう。ずっと、ないと嘆いていたものね」
ジルベールの表情が、みるみるうちに凍りつく。何も後ろめたいことはしていない、そういった態度で接していればいいはずが、同じ部屋に立つ吸血鬼の威圧に押されてしまう。
鍵のついた棚に何を入れているかは、言っただろうか。
言ったかもしれないし、言っていない気もする。だが、その曖昧な記憶はティエの発言で意味のないものに変わった。
「パスポート、見つかったんでしょう」
「……違う。隠してるわけじゃない、知らせるつもりでいた。でも、いきなり来られたから驚いて……」
「日本に帰るの?」
見下した、どこか軽蔑した視線のままでティエが問う。ティエは元々、強い依存気質を持ち合わせており、孤独に弱い生き物だ。
自分なしで世界が巡る人間を何より嫌い、冷たくあたる。ジルベールとここまで仲を通じ合わせたのも、お互い表舞台では生きられないという共通の立場があってのことだった。
だが、パスポートがあれば滞在期間を過ぎていることなどささいな問題になる。自分がどこの誰なのか、証明できる。表の世界へ帰ることができる。
その事実を怒っているのは、明らかだった。
「何で、帰らなきゃいけない?」
「あなたは帰る家がある。あなたは待っていてくれる人がいる。あなたは私なしでも生きていける。あなたは、今までの世界へ帰れる」
「ばか言うな。誰にも言わずにこっちへ渡ってきて、そのまま何年経ったと思ってるんだ。ドイツに飛んだっていう事実こそ残っているだろうが、行方不明扱いにはなってる。それで何事もなく数十年経てば、死亡扱いだ。死んだ人間を受け入れてくれる場所がどこにある」
「では、その後ろ手に隠しているものは何?」
「……」
「何」
「……パスポートだ」
「では、どうするのかしら。それを破り捨てるとでも? あなたは偽造くらい易くやってみせるでしょうけれど、それではばれなくても意味がないのよ。言っている意味、わかるかしら?」
「……落ち着け、ティエ。これは単に、」
「落ち着いていられるものですかっ!!」
厚い書物が、重い音をたてて床に落ち、埃が舞った。とっくみあい、派手な音をたてながら、ジルベールは苦痛に喘ぎを漏らす。
人間と吸血鬼の力差は、圧倒的だった。無理矢理ジルベールを押さえつけようと動いたティエに抵抗するまではよかったが、それも長くはもたない。
ティエの右手は、ジルベールの片方の手首を。
そして、左手はしっかりと指の一本一本が、そしててのひらが首に絡みついていた。無意識の力に締め上げられ、声を出すことすら許されない。
このまま死ぬのかもしれない、と酸欠であやふやになった意識がジルベールの体から力を奪った。
「あなたが……あんたが、あんたが私を裏切るから……私を捨てて、自分だけ……」
力を緩めないまま、呪詛が続く。ティエが正気を失うのは、これがはじめてではなかった。パスポートを今更手放したとて、おさまらないだろう。
姿勢が崩れ、力が緩んだ一瞬に――ジルベールは最後のチャンスを得た。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴