NIGHT PHANTASM
12.嵐のあとで(1/5)
『絶対に、生きて……三人で帰りましょう。絶対よ』
約束通り、ドイツに三人は無事帰ることができた。いや、無事に……というのは、正確ではないかもしれない。
イギリスへ発つ時と同様のさまを見せていたのは、ルイーゼただ一人だった。ティエはいつも通りにとつとめているが、どこか重く暗い表情を隠せない。嘘が、下手だ。
アンナはといえば、一番ひどい状態だった。
身体的にいえば、体中傷だらけで、連れ帰るのにはなかなか難儀させられた。人間に見つかり、病院にかつぎこまれては面倒なことになる。
ティエの血をもってしても、完全に治癒するには数ヶ月ほど安静にしていなければならないだろう。
精神的にいえば、じょじょに回復に向かってこそいるが、最初はもはや廃人といってもよかった。誰の声も耳に届かず、捨てられた人形のように焦点の合わない目のまま黙り込み、決して自分からは口を開かない。つまり、イギリスにいる時はもちろん、ドイツに帰ってもしばらくは一言も発さなかった。
地下でホールの惨劇を見た後、通路の導くままにティエとルイーゼの二人はアンナを探すべく走りつづけていた。
時間も押している上、ただでさえ精神が不安定にできているアンナを目の届かない場所に置いておくのは不安が残る。不思議な胸騒ぎも、止まらなかった。
「……アンナ」
先行するルイーゼの足が止まるまでに、そう時間はかからなかった。白の世界に、飛散している赤。そして、黒い人影。
「……」
名を呼ぶ声に反応したのか、アンナは死んだ目で二人を見る。だが、それが最後だった。次の瞬間には崩れ落ち、床に伏す。
――二人はその状況を、どう見ていいのか迷った。
吸血鬼の亡骸。胴体と頭は分断され、とめどなく血が流れつづけている。近づくと、ぴちゃ、ぴちゃ、と海の赤がはねて音を立てた。
その少し奥に倒れているのは、エルザだったもの。体中傷という傷に切り刻まれ、胸には風穴があいている。ビッテンフェルトの黒百合が散ったという事実は、明らかだった。
そして、そのエルザを惜しそうに抱いたまま、アンナが意識を失っている。彼女の傷もひどかったが、すぐ処置をしなければならないほどではなかった。
命の危険こそないが、放ってはおけない、そんな境目の状態。
時間を意識し、ルイーゼがアンナの手をエルザから引き剥がそうとする。だが、気絶しているにも関わらずそれは強い力で少女だったものを包み離さない。
ティエの吸血鬼の力をもってしてやっとだった。
「マスター、エルザは……」
意識のない人間の体は、重い。疲れもあってか、ルイーゼはアンナを抱えながら息を切らしていた。エルザの亡骸を一瞥し、ティエは現在地の場所を脳裏の地図に当てはめる。
「置いていくわ」
「マスター……」
「私だって、連れて帰りたい。けれど、時間がないの……わかってちょうだい。ルイーゼ、アンナは私が抱いていく。先に出口へ」
「……」
言う通りアンナの体をティエに預けながら、ルイーゼはいかにも何か言いたそうな複雑な表情を浮かべた。
エルザに、肩入れしているわけではない。ただ、作戦の中心にいたレンフィールドという吸血鬼のしもべ、彼女はただそれだけだ。死も覚悟していたはず。
万が一まだ生きていたとしても、毒ガスを突破できずに死ぬ。苦しみ、あがき、マスターであるレンフィールドのことを思いながら死ぬだろう。
早かれ遅かれ散る命。
だが、それでも。
「行きなさい! ルイーゼ、命令が聞けないの!? 早く行って!!」
その瞬間向けられた目は、自然の摂理にも似た厳しさが灯っていた。自分を責めているわけではないとわかってはいても、足がすくむほどの威圧。
頷き、背を向け走り出す。血の海を抜け出して、陸へ。振り返ることを、ルイーゼは許されなかった。
「ビッテンフェルトの、黒百合」
アンナを壁にもたれかからせ、ティエはエルザのそばで片方の膝をついた。まぶたをなで、表情をやすらかなものにしてやる。
おそらく。
おそらくは、彼女が死の間際にあったアンナをかばったのだろう。ホールの惨状は、彼女が一人でやったに等しい。全てが同士討ちするほど、甘くはない。
生きてレンフィールドのもとへ帰ろうと思っていたのだろうか。思っていたのかもしれない。信じたかったのかもしれない。
明日が来ることを。
生きるための筋書きが、明日も、明後日も、ずっと続いているということを。
「あなたの命に感謝する。あなたがいたから、私はアンナのための筋書きを考えることができる。けれど……」
言葉が、静止する。
吸血鬼は、涙を一滴も流さなかった。瞳をうるませることもなく、ただ悲しげな表情を模倣するように、ぎこちなく歪めた。
息を吸う。
これが、エルザ=ビッテンフェルトという少女に与えられる最期の言葉になる。
「けれど、私は散っていく花を空へ送る術を知らないの。枯れていく花に、水を与える以外の選択を知らない。だから、ここで、さよなら」
痛々しいエルザの亡骸。だが、表情だけは、まるで眠っているかのようだった。だが、彼女はもう深い紫をした瞳を見せてくれない。小さな体はもう動かない。
ティエは立ち上がり、意識の戻らないアンナを抱えたまま、長く続く白の世界を歩き出した。ゆっくりと、そう、ゆっくりと。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴