NIGHT PHANTASM
11.賽は投げられた(5/5)
――まだ、生きているのか。
――もう、死んでいるのか。
「は……っ……」
少女はひざをつき、胸にたまった息を一気に吐いた。直後に咳き込み、大量の血液を嘔吐する。それは、辺りの血の海に混じって境界をなくした。
鼻がおかしくなるほどの、死臭。
目を疑いたくなるほどの、死体の山。
ところどころに散らばるガラスの破片は、全て元々グラスの形をなしていたものだ。目の前で、最後にしとめた吸血鬼が倒れている。手が、弱く痙攣していた。
もうろうになる意識を呼び止めながら、思う。
ワインに混入されていた猛毒というハンデがなかったのなら、こちらが負けていただろう。あっても、こちらは満身創痍なのだ。
吸血鬼と人間とが、ここまで力差を持っているとは、エルザは頭で知ってはいたものの体で経験したのははじめてだった。目が、かすみを訴える。
自分という武器のありかを探す。かすんで見えない、ぼんやりと赤い世界が反転し、白に変わる。
倒れたまま、入り口の方向を見る。扉は開いていた。人数を計算するに、逃げたのは一人だろう――追わなければいけない。
マスターであるレンフィールドは「皆殺しにしろ」と言った。命令は、遂行せねばならない。筋書き通りの道を歩まなければ自分という存在が消えてしまう。
おぼろげな記憶が蘇る。
過去に出演したスナッフ・ムービーにでも、これほど凄惨な光景はなかった。人という人が積み重なり、倒れ、壊れている。
嗅覚が麻痺しかけた頃、嗅いだ血の匂いにわずかななつかしさを覚えた。半身を殺した時、そう、あの時はこれによく似た匂いを嗅いだ。
「ねえ、さん……」
ごぼ、と音をたてて血が口内を汚す。エルザは、痺れる手を必死に伸ばした。入り口の方角に向かって、まっすぐに。
「姉さん……姉さん、お願い、私を立たせて……私を生かして、そして、あの人のためにもう少しだけ力を貸して……」
陽炎の向こうに、いつかの自分を見た――エルザは、そんな気がした。
「ちっ……」
時間がない。それはわかっている、わかっているのだが、アンナの動きをまるで予知しているかのように相手は余裕を崩さない。
吸血鬼が、猪であれば違ったものを。知恵がまわっているだけに、厄介だ。といっても、持久戦に持ち込めば間違いなく人間である自分が負ける。
しばらくのうちに、アンナはナイフなど吸血鬼を前には何の役にも立たないことを思い知った。
切ろうと、刺そうと、まばたきの間に治癒してしまう。体術に切り替えても、致命傷という致命傷は決して決まることがない。
そもそも、どこを狙えというのか。
人間の器官が、そのまま吸血鬼のそれに当てはまるとは限らない。人間とよく似た姿をしているのは、見かけだけかもしれないのだ。
蹴られた衝撃に、脳しんとうを起こす。世界が揺れる。意識が落ちろと、奈落の底から足を引っ張ってくる。
「……姉さんが、いたなら」
――こんなことには、ならなかったのに。
呟きながら、壁に手をつき立ち上がる。真っ白な壁に、血の手形がついた。
「痛かろう。人間である以上は、仕方ない」
「……黙って」
靴音が、硬い床に反響する。それが近づいてくるたびに、アンナは死の予感を色濃く感じ取っていた。あっけないものだ、と思う。
人間を相手に天狗になっていた自分が招いた悲劇か。立ち上がるだけで、膝ががくがくと震えだした。力なんてものは、とうの昔に入らない。
「そのまま立っているといい。最期だ、痛くはしない……怖いのなら、それを先に消してやる」
「……」
いらない、と言ったはずなのに、唇が動かなかった。ただ、息だけが漏れて出た。
視界が暗転していく。男の腕が勢いよく伸ばされ、心臓めがけて手刀が繰り出される。終わりか、とアンナは悔しさに歯をくいしばった。
肉を裂き、無理矢理に押し広げる嫌な音が静寂を潰した。
「な……」
吸血鬼の短い言葉。まっすぐ立つこともできず、姿勢を落とす形になっていたアンナは、ゆがむ視界にオリーブグレーの長く美しい髪の幻を見た。
否。
それは、漆黒だった。
まばたきを繰り返すと、しだいに意識とともに視覚が戻ってくる。人影の向こうで、吸血鬼の首がはね落ちた。重い音を立て、床を転がる。
再び、肉を裂く音。
「エルザ……!?」
吸血鬼と、アンナとの間。そこに、ビッテンフェルトの黒百合は立っていた。吸血鬼の攻撃を受け止め、胸部に風穴を開けた姿で、手にはアンナのナイフを握っている。
後姿のために、表情はうかがえない。いつの間にここへ来たのか、疑問は絶えることなく出てくるが、何をどう言っていいのかわからない。
「アンナ」
それが、合図だった。
少女の軽く薄い体は倒れ、それを慌ててアンナは抱きとめる。体中が痛みを訴えていたが、体は問題なく動いてくれた。
エルザの状態はといえば、ひどいものだった。体という体を傷つけられ、血にまみれ、胸には大きな風穴があいたまま。ひゅうひゅうと呼吸を漏らすが、それもだんだんと弱弱しくなっていった。ナイフが、床に落ちる。
「エルザ、いったい、どうして、なにを、なんで……」
思いが、言葉にならない。
時間がないのに。
レンフィールドが毒ガスを使うといった時間にも、エルザの命が灯火が消えるまでの時間も、何もかもがまばたきの間に迫り来るのに。
自分をかばって、吸血鬼と相打ったのだと頭が理解した時にはもう、エルザのまぶたは下りていた。
軽かった体が、重くなっていく。少女だということは理解していたが、こんなにも体は小さかっただろうか。まるで、人形のようだ。
「……アン、ナ」
胸に空いた穴のせいで、エルザは喋ることすら許されないに等しい。
抱かれたまま、乾いた唇だけをわずかに動かした。聞き漏らすまいと、アンナはそれに集中する。
「私は、一番、深い場所に……辿り着いたって、思ってた」
「エルザ……やめて、もうやめて」
「でも、違った……もっと、暗くて、深い……」
遠くから、響く足音。駆けてくるその音を、アンナは今まさに自らの胸に抱いている、エルザの時計の針が折れる音だと錯覚した。
迎えが来て、エルザはこの世界を去る。どんなに走っても、地獄は自分達を追い越していく。わずかにまぶたを上げたエルザが、うつろな瞳をアンナに向け、片手を伸ばした。
顔の傷を、やさしくなでおろす。二回目で、それは途切れた。エルザの腕が、力なくだらりと落ちる。
ビッテンフェルトの黒百合の、最期であった。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴