NIGHT PHANTASM
11.賽は投げられた(4/5)
「マスター!」
白い世界に、異質な黒が見え思わずルイーゼは口を開いて、声をもってそれを呼んだ。
幽鬼のように、ゆらりと振り返る影。それは確かにティエであったが、別人ともいっていいほどに疲れた顔をしていた。
元々薄いも濃いもない真っ黒に彩られていた瞳は増して生気をなくし、どこかうつろに視線をただよわせている。
手には、人間の腕があった。
顔には、大量の返り血があった。
「……ルイーゼ」
弱弱しい返事。
駆け寄ると、それを待っていたかのように、黒の影は崩れ落ちた。まるで、人形のように。
おかしい。自分の知っているマスターは、こんなに弱いさまを他人に見せたりしない。いつでも気高く、絶対なる夜の女王としてふるまっているはずなのに。
「マスター、どこかお怪我を……?」
無言で、ティエは首を横に振る。
もたれかかるマスターの体が、やけに重いのは返り血を吸ったドレスのせいだと、ルイーゼはこの時気づく。
むせかえり、吐き気を催すほどの鮮血の匂い。
「では、一体……」
そこまで言って、ルイーゼは目を見開いた。
死角になっていて先ほどまでは見えなかった通路。そこに、屍の山が積み上がっている。力任せにひきちぎられたようで、五体満足なものはほとんどない。
死体の恐怖に彩られた表情に戦慄を覚える。ある者は、口から牙がのぞいていた。――吸血鬼さえも、こんな殺し方ができるなんて。
「……レンに、会ったわ」
「何か言っていましたか?」
「いいえ、何も」
それが嘘だということは、明白だった。
ただ屍の山を築きあげただけで、これほどまでに疲弊する存在ではない。そこまで甘く幼稚なら、ルイーゼはマスターと呼び慕っていない。
「私はいい。私はいいから……アンナのところへ、行きなさい」
苦しげに言ったティエの口の端から、血が筋となって流れた。強く歯をくいしばったばかりに、歯茎から出血している。その色は、悔しさだった。
アンナのところへ行け、と言ってもティエはルイーゼを支えに立っている上、今にも意識を手放さんばかりの危うさをあらわにしている。
体に傷は見当たらない。受けたとしても、すでに治癒しているのだろう。一騎当千ともいえるこの姿に、ルイーゼは言葉を失った。
互いが沈黙すると、音が消える。白い世界はわずかな音を全て吸収し、無としてしまう。自らの心臓の鼓動、そして、わずかな耳鳴りだけが時間の進行を感じさせた。
「……?」
突出しがちであるアンナが敵を前にして止まったのは、直感がそう命じたからに他ならなかった。
何かが違う。
人間は、これほど異質なオーラを発していない。
「レンフィールドの、新しい駒か? ……私のしもべを殺したのはお前だな」
落ち着きのある、聡明さを感じさせる声だった。傷追いではあるが、背筋はまっすぐに伸びている。瞳に映る複雑な色で、ああ、目の前のこれは吸血鬼なのだと理解した。
見たところ、武器を持っている様子はない。しもべの姿も見当たらない。何故こんなところに単身いるのかわからないが、可能性としてはないこともない。
ホールが、落ちたか。
レンフィールドは、とどめに毒ガスを使うと言っていた。となれば、本人かエルザ、どちらかがホールから動く必要がある。そして、残る一人がホールで全てを見届ける。
気に食わない、あの男のことだ。自らが残り、危険を前にすることはないだろう。組織が崩れていくさまを愉しんで、いいところだけを味わっていくに違いない。
「……」
となれば、残るはエルザしかいない。――吸血鬼を相手に、人間であるエルザがやりあえるのだろうか? 手間取っているうちに、時間切れとなりレンフィールドに殺される可能性もある。
助けにいく、という選択肢が浮かんだことに、アンナは自分でも驚いた。自分のプライドをへし折り、こんな醜い傷あとをつけた人間なのに。
苦戦しているかどうかもわからないこの状況で、助けにいく必要などほとんどないというのに。死んだところで、関係のない――関係の、ない?
本当にそうなのか?
本当にそう、自分は思っているのか?
思いは、言葉に変わった。
「……エルザは」
「……?」
「エルザは、どこにいるの? 生きているの?」
問いかけに、吸血鬼はしばらくの間黙っていた。答えを渋っているというよりは、どう形容すべきか迷っている。
「動いていなければ、ホールだろう。生きているのか、という問いには答えられない。ビッテンフェルトの黒百合の実力は確かだが、相手が悪すぎた」
「……」
目指す場所は、決まった。
ホールだ。
そのために、邪魔なものは全て打ち崩す。アンナは黙って、ナイフを構えた。
「どきなさい。どかなければ、突破する」
「よかろう。私にたてつき眷属を奪った痛みを、身をもって教えてやる」
言い、吸血鬼は外套を脱ぎ捨てる。むやみに突っ込めば、死ぬ。感じるプレッシャーからその現実を理解はしていた。していたが、今のアンナはそれを脳からシャットアウトし、ただ目の前の敵だけを見つめた。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴