NIGHT PHANTASM
10.生命の螺旋(2/4)
どこまでも続く廊下。
見分けがつかないほどに似ている病室。
まとわりつく死の匂い、それにあらがい続ける生の匂い、それでも逃げ切れなかった者の未練。
「……」
命が密集している中での、息が詰まるような気配の集合体。病院中がその空気に満ちているのかと思うと、ルイーゼはあまりいい気分になれなかった。
いってしまえば、誰が生きて誰が死のうが自分には関係ない。生きたければ、どんな方法だっていい。すがればいい、この世に残ればいい。
だが、迷路のような規模とそれにより作り出された意図なき迷路は、めまいを訴えるほどの影響力があった。
アンナはどうしているだろう。
ないとは思うが、万が一しくじったとあれば、病院内がざわめくはず。ナースステーションをちらりと見ても、そんな様子はない。
殺せと命じられた雛鳥は一つ上の階に入院しているはずだが、誰かが走る足音も、悲鳴も聞こえてこない。テレパシックなものがあればいいのだが、ルイーゼとアンナの場合『近すぎるがために』逆にわからない。遠く離れていても、気配はどろどろにまじりあいどこが境界線か判別がつかないのだ。
「ふむ……」
自分だったら、どう殺すだろう。
ふとそう思い立ったルイーゼは、目に入った病室に足を踏み入れた。扉は開け放たれており、手前側のベッドに患者はいない。
だが、棚やベッド周りに物が置いてある。そのあたりを散歩でもしているのだろう。
ベッドの横に立ち、イメージを膨らませる。
「……」
標的に意識がある場合は、もたもたしていられないだろう。素早く病室に滑り込み、ベッドに体を横たえている標的に、まず馬乗りになる。
数秒もかけてはいられない。悲鳴をあげられないためにも、喉を狙うだろう。ナイフを埋めた後は、口を塞ぎ空いた手――足でもいい。とにかく、ナースコールを遠くへ飛ばす。
ここでやっと一呼吸がおける。相手が意識を放さないようであれば、もう一度ナイフを――どこに刺せばいいのだろう。ルイーゼは、悩んだ。
扉が開いているのであれば、標的が死んだことを確認してからカーテンを閉めるべきかもしれない。廊下が無人であり、手早く去れれば、そんな作業は無駄に等しいが。
隣の患者も、場合によっては処分する。個室でないことが残念だ。病院というものには縁がなかったが、知ってみるとなかなかに興味深い。
両親も、こんな病院が村にあったなら助かっただろうか。
「無理、か」
ひとりごちた。
両親を殺したのは、人間ではなく怪物だ。そのような怪物に、いったい誰が抗えるというのだろう。
視線をベッドから離す。患者の荷物を置く場所だろう、細長いテーブルがあった。
家族に持ち帰ってもらうものを詰めた袋。タオル。歯ブラシ。見舞いの花。すみには、写真立てがある。切り取られた風景を写すそれは、写真ではなく絵だった。
のどかな田園風景、とでも言えばいいのだろうか。ルイーゼはそういった表現に疎い。知る機会が、なかったためである。
手にとり、細部を見た。小高い丘、そこから見た小さな村は、点景に近くもあるがはっきりと通りが形成されている。家、広場、遠くへ続く大きな道。
村の周囲には、豊かな森が広がっていた。水彩のタッチは決して薄すぎず、かといって鮮やかすぎない。プロとは思えないにしても、素人にしてはいい絵を描く。
「あら、だあれ?」
「!」
突然背後から聞こえてきた声に、ルイーゼは無意識ながらも得物に手をやった。相手が自分に触れていたなら、殺していたかもしれない。
写真立てを持ったまま振り返ると、そこにはもう骨と皮しか残っていないような――やせこけた、老婆が立っていた。服と様子からするに、この部屋の患者なのだろう。
つまりは、ルイーゼが今いる空間の主。
「あ……いえ、えっと」
ルイーゼにしては珍しく、言葉に詰まった。母国であればよかったのだが、ここはイギリス。英語はほとんど学んでいない、基本はわかっても日常会話をかわすのは彼女にとってとても難しいことだった。
読めるが、喋れない。つまりは、その典型だった。
「……ドイツ人?」
やさしく微笑む老婆が、用いる言語をするりと入れ替えた。
「はい。ドイツ語、おわかりになるんですか?」
「ええ。だって、私はドイツ人だもの。久しぶりにこの言葉で話すわ……通じているかしら?」
「大丈夫です。すみません、勝手に立ち入ってしまって」
「気にしないで。その絵が気になるの?」
老婆の視線の先に、ルイーゼが手にした写真立てがあった。頷くと、そう、それはドイツの――どこだったかしら? と老婆は川に落ちた硬貨を探すように答えをたぐる。
その間に、それは息子がデュッセルドルフに行って買ってきてくれたのと付け足した。とても大事にしているようで、それがわかるなりルイーゼは写真立てを元の位置に戻した。
「少し、話しませんか?」
「いいの? あなた、患者じゃないってことは誰かのお見舞いにきてるんでしょう?」
「用は済みましたから。ほら、立ったままだと疲れますよ。ベッドに寝て、楽にしてください」
ほんの、気まぐれだった。
言いながらも、ルイーゼの脳裏には先ほどの絵が焼きついて離れない。デュッセルドルフで買った、その事実だけは忘れてはいけないような気がした。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴