NIGHT PHANTASM
10.生命の螺旋(1/4)
血が、しぶいた。
「……」
そのさまを、アンナは何の感情も浮かべずにただじっと見つめていた。血を噴き、体を痙攣させたそれは――まだ、人の形をしている。
悲しくはない。
胸が痛むことも、ない。
足りなければナイフを再度埋めようと時を待っていたが、相手はほどなくして病院特有の殺風景なベッドの上で事切れた。ナースコールを使えないよう、事前にそれは手の届かない位置へ突き飛ばしてある。
その病室は二人部屋であったが、窓際のベッドを使っている患者は眠っているようだった。隣の血なまぐさい惨劇も知らず、小さな寝息がときおり聞こえてくる。
「さて、どうしたものかしら……」
ナイフの刃を拭きながら、アンナはベッドを離れた。もし、窓際の人間がナハティガルと関係のない一般人だとすれば、この惨状を見られるとこちらにしてもナハティガルにしても厄介なことになる。
今殺したこの亡骸は、ナハティガルに組する吸血鬼のしもべ――いわば、雛鳥だ。
病院の人間が第一発見者になるとすれば、抜かりなく手は回っているはずなので、患者が何者かに殺されたという事実は隠蔽される。
ナハティガルに深く関わるものは、吸血鬼という存在に傾倒したものは、表の舞台に名を出せない厄介な人間だ。
しっかりと端まで閉められたカーテンの向こうで、生の息吹が聞こえてくる。アンナのそばからは、死の誘いが聞こえてくる。
口封じを施すのに、そう時間はかからない。だが、アンナは迷ったあげくそれを実行しなかった。ナイフをシースにおさめ、持ってきた大きな花束の中へもぐりこませる。
廊下に人の気配がないか確認をとって、静かにその場を去った。
こつり、こつりと規則正しい足音が廊下に浸透していく。
陽動を狙って、そして牽制と合図を兼ねての殺しだったが、白昼堂々病院という人間が数多くいる空間で実行するのはなかなかに気を使う。
前から歩いてくる看護師が、すれちがいざまに足を止める。こちらを、見た。
「お見舞いですか?」
「……はい」
聞き慣れない言葉。表情や発言の長さで大体何を言っているかは理解できるが、返事はあいまいにする他にない。怪しまれているのかもしれない、とアンナは無意識に花束の中で眠る相棒を意識した。
しかし、それは杞憂に終わる。にこりと微笑んだ若い看護師は、そのままアンナの横を通り過ぎていった。
万が一を考え行き先を目で追ったが、アンナが先ほどまでいた病室に入ったわけではない。それきり、廊下はアンナをのぞいて無人状態になった。
もし人がいたとしても、アンナが何をしたのか、何をしに来たのか気が付かないだろう。
上品でクラシックなボルドーのワンピース。うるさくない程度についた生成り色のレースが、品の良さを更に際立たせている。
オリーブグレーの長い髪は腰まで流れ、そのさまを壊さないデザインのモダンローズを模した飾りが施されたカチューシャ。少女ピアニストか、はたまたバイオリニストか。
そんな少女が花束を抱えて廊下を歩く。誰が怪しむというのだろう、殺気を消すことに慣れているアンナには多少気がいっただけの仕事だった。
エレベーターに乗り、ふと気付いた。
姉であるルイーゼは、どこにいるのだろう。『アンナの人格』を着て、同じ病院内にいるはずなのだが、何階にいるか聞いていない。
ルイーゼは別の仕事があるわけでもなく、ただアンナが失敗した時の『保険』として出向いただけだ。緊急時を除いて自由にしていいと命じられていたため、きっとそれを実行しているのだろう。
さすがに一階ずつしらみつぶしにしていくのは疲れる。それに、多くの病院関係者や人間に自分の姿を見せるべきではない。
仕方ないと向かった一階は、エントランスということもあり一般病棟より少々騒がしかった。ほとんどが英語を喋っているのだろうが、アンナにはさっぱりわからない。
待っていてもいいことはない。
そう判断して、アンナは花束を抱えたまま病院を出た。それを気にとめたものは、いなかった。
「……ん」
外に出るなり、密集しすぎている命の気配から解放される。人が生まれゆき、死にゆく場所である病院は、どれだけ外見をきれいにして安心感の生まれる色使いやデザインをしていても命の独特の匂いを隠し切れない。大きな病院だけに、なおさらだった。廊下を歩いているだけで、命の残像が追いかけてくる。
自分はここにいるのだと、語りかけてくる。
亡霊である自分に言っても、無駄なのにね――アンナは、心の中で自嘲した。
このような病院が故郷にあったのなら、両親は助かったのだろうか。闇の中で、恐怖におののいたまま死ぬことはなかったのだろうか。
「無理ね……」
空を見上げる。雨上がりの痛いほどの青が、一面に塗りたくられていた。
両親を殺したのは、人間ではなく怪物だ。そのような怪物に、いったい誰が抗えるというのだろう。平和慣れしている人間には、抵抗するという選択肢でさえ浮かばないはず。
病院から、マスターのいるホテルまでそう遠くない。わからないようならエルザを迎えに向かわせる、と気に食わない金髪の吸血鬼は言っていた。
だが、それはアンナのプライドが許さない。時間が経ちしおれていく花束を抱えたまま、アンナは表通りを歩き始めた。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴