NIGHT PHANTASM
01.屋敷の住人(3/6)
夜を満たす、黒いベルベットのような隙間のない闇が、動き始めた。
合図などありはしない。
殺した方が勝ち、明日を手にする。殺された方が負け、過去の存在となる。時計の針を折られるのは、亡霊か、はたまた、ハンターか。
「ジルベール」
地下へ続く階段を降り、ひらけた場所に出るなり主は無駄な動作もなく探し人の名を呼んだ。
返事はない。
「……」
呆れ顔で、吐くため息。奥へ続く扉をノックもなしに開け、主は『やっぱり』と表情を歪めた。片手に持ったソーサー、その上に乗ったカップに残った紅茶が揺れる。
狭く黴くさい部屋。換気用の特殊な植物や外に繋がる窓こそあるが、普通の人間はこんな場所でろうそくを灯そうなどと考えないだろう。酸欠の可能性だけではなく火事にもなりかねないため、他のもので代用しろと主は言ってきかせているのだが、聞き入れられる様子もない。
ろうそくの弱い灯りに寄り添うようにして、探し人はのん気に眠っていた。本棚は変わりなく小難しい本がぎっちりと詰められており、ちょっとした図書館である。
机の上や床には何かを書きなぐった紙が散らばり、積み重なり、灯りからそう遠くない位置に置かれたカップには紅茶がそそがれた状態のままでほったらかしにされていた。
始終を見ていたわけではないために確実ではないが、おそらくは一口も飲んでいないのだろう。
「ジルベール、起きて」
ため息を再びつきながら、ソーサーとカップを空いた場所に置く。掛け布の一つもなく無防備に眠っているその存在は、人間だった。
ドイツ姓を持っているが、偽名で血筋は根っからの東洋人であるために、周りの言う外見年齢はてんであてにならない。
主やルイーゼ、アンナは大体このジルベールという女を二八歳くらいだろうと思っているが、本人もわからないという始末だ。どうでもいいことであり、どうしようもなかった。
「……ん」
そっとまぶたが上がる。黒い瞳が、少しずつ現実を認識し覚醒しつつあるが、まどろみの中を泳いでいることには変わりない。
「起きて」
「……ああ、うん。ティエか」
いかにも寝起きとばかりに目をこすり、声をかけてきた人物を確認するジルベール。訛りのない、流暢なドイツ語だ。
本人は英語や日本語も話せるといっていたが、屋敷の主ティエはドイツ語とチェコ語以外わからないために、全部一緒に聞こえてしまう。
過去に、気まぐれでジルベールに日本語を習い何故か自分の日本名まで貰ったものの、なんだったかはとっくの昔に忘れてしまった。
「追い出すわよ」
「ああわかったわかった、そんな怒りなさんな。どうせ紅茶がおいしくなかったんだろ? そりゃそうだ、まずいのを選んだから」
「……」
無言のまま、視線での威圧だけをティエはジルベールに向ける。
人間と人外の中立を保つ彼女は決して(ティエにとって都合の)悪い人間ではないのだが、考えがズレていてたまに突拍子のない発言や行動をとる。
だが、ティエは本当に彼女を追い出したりしない。それと同時に、ジルベールが勝手に屋敷を去っていくこともない。
もう、何年一緒にいるのか。吸血鬼であるティエはともかく人間のジルベールは相応に歳を重ねているはずなのだが、時が止まった館ではその事実も曖昧になる。
東洋人だから、というのもあるが老けている印象は全くない。人間のふりをしている吸血鬼なのではないか、とティエはたまに思う。
二人の仲を『クサレエン』だと、ジルベールは日本の言葉で称していた。
「まずい方が眠たくならないんだよ、まずいから」
「寝てたじゃない」
「まあ気にするなって。で? 用事、それだけじゃないんだろう?」
髪を手ぐしでときながら、向き直ったジルベールは顔を上げた。もう、そこに眠気の色は見えない。
「今夜は、二人に任せたわ。相手は複数。ここを囲む形で潜んでいる」
「殺すのか?」
「誰を?」
「お前の訓練は、自己防衛を目的にしちゃあやりすぎだ。任せたら、相手は全員肉の塊になるぞ」
机に頬杖をついて、ジルベールはそれが当たり前かのようにさらりと言ってみせた。棚によりかかり腕を組んでいるティエに、特に驚いた様子はない。
「……」
「それに……わからないわけないだろ、お前に」
「何が?」
「あの子達は、人を殺すことに快楽を見出してる。お前がリードを握ってるからいいものの、野良にした矢先にはふもとの街はすぐにゴーストタウンだ」
「まさか。確かに最低限の訓練はさせたけれど、人間よ? そこまでできるはずがない」
「殺しに特化させて教えたくせに、よく言う」
「違うわ」
ティエの声が、力強いものになった。きっぱりと、分断するように否定する。自分には非がないと、そういった意味合いを込めて。
「何が違う」
「私は、あの子達に生きる術を与えただけ。居場所を与えた。命を与えた。人殺しの機械にするために、生んだんじゃない」
「……まずい紅茶を律儀に飲んでも、頭は冷えないんだな、お前」
「あなたは人間だからわからないのよ」
「そうだな。でも、あの二人も人間だ。お前に気持ちがわかるのか? なあティエ、吸血鬼であるお前にあの二人の何がわかるっていうんだ?」
「……」
それ以上、二人の間にやりとりが発せられることはなかった。
黙って部屋を出ていったティエの姿を脳裏に焼き付けながら、ジルベールは難しい顔をしたまま沈黙に沈む。
そんな表情のままで、本棚に隠れるようにして身を寄せている、複数の引き出しがついた棚をちらりと見やる。一番上だけは、鍵がないと開かない。
だが、ジルベールはその鍵をどこにやったのか数年も昔に失念してしまっていた。今も思い出せない鍵は、偶然出てくることもない。
「……」
それでも、中に何が入っているかは知っている。
パスポートだ。
かつて、この国に渡った時に持っていたパスポート。自分がどこで生まれ、誰なのか、何歳なのか、存在そのものを証明できる唯一のあかし。
「……あれがないと、私も『自分は人間だ』なんて、言えないのかな」
だとすれば、自分は何者なのか。人間でないとすれば、何だというのか。ジルベールはジルベールであり、きっと死ぬまでそうだろう。
好奇心の導くままに踏み込んだ世界は、果たして必然だったのか、それとも偶然だったのか。
ここは天国か、それとも地獄か。
答えは出ないままだった。
作品名:NIGHT PHANTASM 作家名:桜沢 小鈴