小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

合歓

INDEX|7ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

・・・それとも、思い違いなどではなく、私の頭が狂っているのだろうか。見慣れた眼の前の光景も、狂った私の脳髄が見せている卑劣な幻なのかも識れない。そうだ、そうに違いない。これは幻であって、包帯を巻いているのは識らない女で、本当の妻は今もどこかで私を待っているのだ、あの美しい姿の儘で。
・・・妻を捜しに行こう、妻に会いに行こう。私が心底愛していた彼女にもう一度、会いに行くのだ。
だが先ずは、彼女の貌を思い出さなければ・・・。
私が・・・妻の貌を思い出せなく為ったのは、いつからだったか。
そう、妻が火事に遭い・・・・・・・・・眼の前で眠っている、この女が現れてから、私は妻の貌を思い出せなく為ったのだ。本来、妻の居るべきだった場所を奪い、我が物貌で居座って私を惑わしている女。
凡てはこの女のせいなのかも識れない、いや、この女のせいに他ならないのだ。
もしもこの女がいなく為ったとしたら、妻の貌が思い出せるのではないか。
・・・そうだ、その通りに違いない。この女がいたからこそ、思い出せなかったのだ。この女が忘却を運んで来たのだ。私と妻を引き裂いたのだ。
女は包帯に包まれ、穏やかに眠っている。この女がいなくなれば、私は妻の貌を思い出す事が出来る、美しかった彼女に、もう一度会う事が出来る、満ち足りていた時間が還ってくる。
眼を瞑ると、やはり思い出の中の妻の貌は見えない儘だ。
私はベッドに上り、女の上に跨った。そして、その首筋に手を掛けた。
忘却よ、死と眠りの許に帰れ。
体重を掛けて満身の力を込め、折れて仕舞いそうに細い首を締める。
女は全く動かない。
柔らかな女の肉に私の指が食い込み、首の肉を挟んで、ゴリゴリと骨に触れた感触が伝わってくる。
頭蓋の内壁を鉤爪で引掻かれるかの様な、気持ちの悪い音が体中に響いていた。
力強い龍が、激情を撒き散らしながら私の中を駆け巡り、素晴らしい力を与えてくれている。
・・・私は興奮していた。
この女がいなくなれば・・・・・・死に失せたのなら、私は妻を取り戻す事が出来るのだから。
目蓋の裏の世界では、銀幕に妻が映っていた。
・・・ああ、あと少し、本当にあと少しで、思い出せそうなのだ。そうしたのなら、私は・・・私たちは、楽しかった日々に戻る事が出来る。あの頃の幸福が、もう一度戻ってくるのだ・・・。
十の指に力を込めれば込める程、記憶の中の、美しかった彼女の貌が鮮明に為っていく。
あの頃の妻が甦りそうなのだ。
龍は凱歌の如き雄々しい叫びを上げながら、相変わらずに私の体の中を駆け巡り、驚くべき力を与えてくれていた。
銀幕に映る彼女の貌が明滅し、今にもその貌を思い出す事が叶いそうだった。
渾身の力を込めて、憎むべき女の首を締め上げる。
あれ程焦がれた至福の時が、直ぐそこ迄迫って来ていた。
その時だった。

「ごめんなさい」

包帯を通して、消え入りそうな、極めてか細い声が聞こえた。
耳の中を擽る、甘い声だった。
私はハッ、として手を離した。下半身は、白くべた付く液体でドロドロに濡れており、龍はどこかに行って仕舞って、既に私の中にはいなかった。目蓋の裏の世界では、銀幕に映る妻の貌に再び靄が掛かり、全く貌が見えそうもない。
ぽとりぽとりと、包帯が巻かれた妻の貌に、水滴の様なものが落ちていき、小さな丸い染みを描いていた。水滴は後から後から絶え間なく落ち、その分だけ、彼女の包帯には小さな丸い染みが生まれる。
・・・私の涙だった。
自分でも気が付かないうちに、私は泣いていたのだ。
・・・・・・りぃん、りぃんと、閻魔蟋蟀の涼しげな鳴き声が聞こえる。
いつからあの蟋蟀は鳴き、体を震わせていたのか。
分からない、思い出せない。

りぃん、りぃん・・・。

蟋蟀はいつ迄清らかな声で歌う事が許されるのか。
分からない、分かる筈もない。

りぃん、りぃん・・・。

一体どうしたのなら、私と妻は、あの幸福の日々に戻れるのだろうか。
分からない、識り得る術もない。

りぃん、りぃん・・・。

私はいつ迄この病室に、妻と共にいればいいのか。
分からない、想像も付かない。

りぃん、りぃん・・・。

私はベッドから降り、また脇の椅子に腰を下ろして、閻魔蟋蟀の鳴き声に耳を澄ました。
・・・手を伸ばしたなら、届きそうな程近くに来ていた幸福の時は、私を残して遥か彼方へと失せて行った。私が泣いていたのは、妻の貌を思い出せなかった為だろうか、幸福が私だけを置き去りにし、連れて行ってくれなかった為だろうか、それとも・・・。
チラリと彼女を見遣ると、真白い天井を仰ぎ、眠っている様子だった。一体、彼女はどんな夢を見ているのだろうか、もしかすると、私の事を夢に見ているのかも識れない、楽しかった頃の夢を見ているのかも識れない。だがそれは、彼女にしか分からない事なのだ。
・・・分かっている事と云えば、私はまた、妻の美しかった貌を思い出せなかったと云う事だった。

合歓の花が密やかに咲いていた。
或る日の夕方だった。
何度も小首を傾げながら、興味深そうに花を見ている彼女に、私は教えてやった。

――識っているかい?この花を『ねむ』と呼ぶのは、夜になって花を閉じる姿が、まるで眠っているかの様に見えるからなんだよ。

妻は、

――まあ、この花は『ねむ』と云うのね。

と応え、その匂いを胸一杯に嗅いでから、続けて云った。

――それでは、他の花よりも咲いている時間が短いの?

――そうだね。

綿の様な花弁を撫でながら、彼女がどこか悲しげに漏らした。

――何だか、生きていられる時間が短いみたいで、可哀相ね・・・。

――もしかしたら、そのせいで綺麗に見えるのかも識れないね。

私は、彼女が触っていた合歓の花を摘み、彼女の髪に飾ってやった。艶の在る黒い髪に、その桃色の花が華やかだった。

――こうしたのなら、花は閉じないよ。

妻は頭の合歓の花を触って云った。

――似合うかしら?

頷いて、私はそれに応えた。

――ああ、綺麗だよ。

嬉しそうに別の合歓を眺めている妻の横貌を、私は見つめていた。

――ねえ、ねむの花言葉は何と云うの?

――教えてほしいかい?

私は、態と彼女を焦らす様にして云った。

――またそうやって意地悪して。

ふいと私から貌を逸らし、彼女はその長い黒髪を手で弄んだ。

――『歓喜』と云うんだよ。

眼を瞑り、心の中でその花言葉の意味を考えているのだろうか。少ししてから彼女が云った。

――まるで花火みたいね。

――どうして?

――合歓は、僅かな間だけ咲く歓喜の花。それに、花弁が火花にそっくりでしょう?

二、三度瞬きをするほんの一瞬だけ夜空に咲く、煌びやかで儚い花火。確かに、合歓の花に良く似ている気がした。一瞬だけ眩いばかりの閃光を放ち、見る者の凡てに歓喜を与え、そして何事も無かったかの様に、静かに消えていく記憶の中の住人・・・。

――そうかも識れないね。

そう云った後、私は急に不安に襲われた。急いで彼女の頭から合歓を取り、地面に放った。妻は驚いた表情を見せた。

――どうなさったの?
作品名:合歓 作家名:橘美生