合歓
――人は・・・・・・生きていくでしょう?でも、何時も楽しい、嬉しい事ばかりなんかじゃない。辛い事、悲しい事が在ったとしても、それでもそれを乗り越えようとして、?いて、苦しんで、そうやって生きていくの。その先に待っている幸福を求めて。・・・確かに結果は大切だけど、決してそれが凡てじゃないわ。生きたい、生きていたい、そう願う事こそが、生きると云う事ではないかしら?
私はすっかり短く為った煙草を一喫みした。
――そうかも識れないね。
私がそう云うと、妻はその両手で以て私の頬に触れた。
冬の空気で冷えて仕舞った体に、彼女の手が温かかった。
・・・眼の前では、相変わらず包帯でその貌を隠した女が眠っている。私はふと、この儘彼女が目覚めなかったとしたら、どうなるのだろうか、と考える。私は悲しむのだろうか、泣くのだろうか。
恐らく私は、悲しむ事は無いと思う、泣く事は無いと思う。ただただ、訪れるであろう安らぎに感謝するのだと、そう思う。
私は心のどこかで・・・・・・妻の死を、希っている。
焼け爛れた貌で、この先ずっと生きていかなければならない。それは彼女にとっても、周囲の人にとっても、この上も無い程の苦痛なのではないか。彼女は火傷を負ってから、その様な素振りを一度として私に見せた事は無いが、その胸の内で何を感じ、何を考えているのだろうか。
私はそれを識るのが怖い。彼女の胸の内を識って仕舞うのが怖くて堪らない。
叶う事ならば、妻の火傷が元通りに治ってくれればと、そう思う。しかしそれはいつに為っても叶うはずは無く、また、希う事さえも今と為っては無意味でしかない。鉄鎚を振り下ろした相手が見えないのと同様に、希う相手も、願いを叶えてくれる相手も存在しない。妻を救うのは、『死』以外には無い。
いつもの様に眼を瞑ると、美しかった頃の妻との思い出が次から次へと浮かんでくる。眼を瞑っている間だけ、私は現実の彼女から解放され、美しい思い出の中に生きる事が出来るのだ。アア、この儘眼を瞑り続ける事が許されるなら、どんなにか良い事だろう。何もかもを忘れ、思い出の世界に浸り続ける事が出来たなら・・・・・・。
綺麗な思い出は、病的な迄に私に優しい。
しかし、優しいからこそ、眼を開けた時の苦しみは、耐え難いものと為って私に襲い掛かってくる。あれ程に愛した妻が、今は私を苦しめる。この四肢を食い千切り、心の深淵を陵辱するのだ。
だからこそ、私はいつ迄もいつ迄も眼を瞑っていたい。眼を瞑って、思い出の中に逃げ込み、その世界こそを、私の本当の現実としたい。火傷を負って仕舞った彼女ではなく、あの頃の・・・美しかった頃の彼女と、いつ迄も戯れていたい。
私が愛した妻は、もう夢の中にしかない。現実の世界の、眼の前のこの女は妻ではない。夢の中の妻こそが、私にとっては本物なのだ。
妻が熱を出した。
貌が紅く上気し、荒い呼吸が続く。
私は床を取って彼女を寝かせ、夜伽をしていた。時々、貌や体の汗を拭いてやり、額に置いた手拭いが温く為る度に、冷たい水で濡らし、取り替える。
熱に魘される彼女は、目を閉じた儘、はぁはぁと辛そうに喘いでいる。だがその様子は、何故か艶かしくもあり、私は夢でも見る様な気持ちで彼女を見つめていた。
布団の中から、何かを探し求めるかの様に恐る恐る手が這い出してきた。妻は眠ってはいたが、その表情は酷く怯えており、気味の悪い悪夢でも見ているのかも識れなかった。何か、恐ろしいものから逃げてでもいるかの様に・・・。
私は彼女の手を両手で確りと握ってやった。その手はじっとりと汗ばみ、熱で火照った体は燃える様に熱かった。私が手を握ってから少しすると、妻の貌から険しさが消え、穏やかさが戻った。私が傍に居ると云う事が分かって、安心したのだろうか。握られた手の熱も、次第に下がっていった。
彼女は昔から少々意地を張る性質で、具合が悪かったとしても、辛いだの、苦しいだのと云った事はあまり口に出さない。何時だったかは忘れて仕舞ったが、前にも今の様に熱を出して倒れた事が在り、その時も具合が悪い、と云う事を何一つとして云わなかった。私に心配を掛けまいとしているのだと思う。そのくせ、私の心配は余計な程にするのだ。
だが私は、もっと私を頼って欲しかったのだ。彼女が私を支えてくれる様に、私も彼女を支えてやりたかったのだ。そうする事で、私は彼女に報いたかった。私の手を引いてくれた事への恩を返したかった。
窓の外を見ると、十三夜の月が夜空にぽっかりと浮かんでいるのが眼に入った。
・・・先程から妻が、
――アア・・・。
だのと云った、譫言を繰り返し繰り返し云っている。眉根に皺を寄せ、その貌には苦しみの表情を湛えている。彼女の額に手を宛がってみると、下がって来た筈の熱が再び上がって来ているのが分かった。恐らくは、頭が割れそうに痛んでいるに違いないのだ。
私は何度も何度も手拭を水で濡らし、その額に置いてやった。そして彼女の手を取り、前よりもずっと強く、その小さな手を握ってやった。
空が白み始めた頃に、漸く妻の熱が下がった様だった。
それから暫くして、彼女は眼を覚ました。その眼には薄っすらと涙が滲んでいる。一寸の間、ボンヤリと天井を見つめていたが、やがてゆっくりと私の貌を見た。
――具合はどうだい?
私の言葉を反芻するかの様に、やや間を開けてから彼女は応えた。
――ええ、大分良いみたい。
汗を掻いたお蔭で、熱が下がったのだろう。私は花車な彼女の体を拭き、新しい寝間着と取り替えてやった。その間中、妻はふらふらとしていた。
再び横に為ってから、彼女は云った。
――私、夢を見たのよ。
――どんな夢だい?
悪戯っぽい表情をした後に、弱々しく彼女は笑った。
――教えない。
私はそれに
――そう。
と応えた。
妻はフフッと楽しそうに笑って、私の方へ手を伸ばして来た。私はそれを握り返した。手を握り合った儘、私たちは見詰め合っていたが、それから彼女は眼を閉じ、再び眠りに落ちた。
気が付くと夜だった。
暗い病室の中で、妻がベッドに横になり、眠っている。布団の上に投げ出された両の手は、私の頬に触れてくれた時と、何も変わらずに美しい。十の爪も、丸みを帯び、小さく可愛らしい儘だった。
私は彼女の貌に視線を移す。
これが・・・妻なのだろうか、本当に私が愛して止まなかった妻なのだろうか。
違う、違う筈だ。
彼女は・・・・・・杏子は、美しかった。そうだ、彼女は美しかった筈なのだ。では、どんな風に美しかったのだろうか。
・・・分からない。思い出す事が出来ない。彼女の貌を、どうしても思い出す事が出来ない。しかし、思い出せないなどと云う事が在るのだろうか。この眼に焼き付けた筈の、彼女の貌を思い出せない、そんな馬鹿な話が在るのだろうか。
もしかすると、私は大変な思い違いをしているのではないか。思い出せないのではなく、思い出したくない、そう私の心が云っているのではないだろうか。だとすれば、あの思い出たちも凡て間違っていて、私の都合の良い様に過去を捻じ曲げて仕舞っていたのか。