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合歓

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私は彼女の眼を見つめた儘応えた。包帯が少しだけ持ち上がり、彼女がニコリと笑ったのが分かった。私もそれに笑って応えた。耳の中を擽る彼女の甘い声は、何も変わらない。私が眼を閉ざしてさえいれば、あの頃と何も変わらないのだ。
・・・・・・だが今は、あの頃とは違っている事が在る。その何もかもが違っている。凡てが歪み、捩れ、狂い、おかしく為って仕舞っている。地下から這い出た幼虫は、もう暗闇へ還ることはない。羽を失った蝉は、後は死を待つばかりだ。どんな姿に羽化しようとも、蝉達を待っているのは、等しく『死』なのだ。そしてそれらは、いくら希んだとしても元に戻る事はない。永遠に。
妻は横に為り、眠った様だった。

 初雪の降った日だった。
 私は縁側に腰掛けて、庭先に雪が降るのを見ながら、煙草を喫んでいた。
 庭先の木々に降り積もった雪は、一面を白く染め、昨日までとは全く違う銀世界を作り出していた。小鳥の囀りも、煩い犬の遠吠えも聞こえない。人の話し声さえも聞こえて来ない。
 静かだった。
 私は時折、左耳が聞こえなく為る性質なので、
――また耳が聞こえなく為ったのだろうか。
 と訝しんだが、どうやらそうではなく、本当に静寂が訪れている様だった。
 受けていた仕事は無事に完成し、後は雑誌に掲載されるのを待つばかりである。次の締め切り迄には未だ間が在ったので、私は自分の小説を書き進めている処だったが、一向に筋が浮かんで来ず、私は縁側に腰掛けてボンヤリとしていた。そうしている事で、筋が浮かんでくるのを幽かに期待しながら。
 自分の小説の事となると、途端に頭が働かなくなる。
 皮肉だ。
書きたくもない小説ならば、どこかで見た事がある様な展開を何個か繋ぎ合わせ、御座なりにでも書き上げられるのだが、自分の小説の事となると、何も考えられない痴呆者の様に、筋が浮かんで来ないのだ。
 薄々は感じている。
 要するに私は・・・・・・物書きには向いていないのだろう。
 他の小説には、虚構の世界が本当に存在するかの様な不思議な雰囲気と、それを完全に伝え切るだけの文章力とが備わっている。幻想の世界を創り上げる文章が、劇中に出てくる人物の言葉が、それらを統べる題名が凡て一つとなり、現実には存在しえない世界を、まるで本当に存在しているかの如く読み手に錯覚させ、物語の世界に引き擦り込むのだ。
それらを読んだ後に自分の書いたものを読むと、余りにも陳腐に見えて仕方が無い。
構成も、科白も、展開も、何もかもが紙の様に薄っぺらで、在り来たりで、面白みなど無い。 
 私には、物書きとして大切なものが、凡て欠如している。
 ・・・・・・何も持たぬ儘に生まれ、何も得ない儘にここ迄来て仕舞ったのだ。
 だが私は、それを認めたくないのだ。認めて仕舞ったのなら、私は私ではいられなくなると思う。だから私はその真実から眼を逸らし、書きたくもない官能小説なぞを書き、その合間合間に自分の小説を書く。そうして、「いつかは自分の小説だけを書くのだ」と、永久に届かない夢を見続けているのが、私には似合いの性分なのだ。
 今迄に何本か、自分の小説を書き上げた事は在った。
 付き合いの在るカストリ雑誌の編集者に見せると、
 ――後程、拝見させて頂きます。
 と云われたが、それ以降、私の書いた小説の話が出て来る事はなかった。ただ、次の官能小説の依頼が来るだけだった。
 自分なりに幻想的な世界を描いた小説の筈だった。
 私はそれから、小説を書き上げても、妻にしか見せなく為った。だから私は、それを妻以外に見て貰った事が無い。彼女はそれを見せると、
――面白いわね。
 と云ってくれた。私はそれが嬉しかった。
 妻は私を愛してくれていた。しかし彼女は小説家ではない、編集者でもない、物書きとしての素養が在る訳でもない。彼女に物語の善し悪しなど分からないのだ。ただ、私を傷付けまいとして、「面白いわね」と云ってくれたに過ぎないのだ。だが私は、妻の優しい嘘から生まれた偽りの嬉しさを享受し、そこで世界を完結させて仕舞い、二度と他の誰かに見せる事はしなかった。
カストリ雑誌とはいえ、編集を生業としているのだから、感想を聞いたのなら、何か返事を聞かせてくれたかも識れない。どこか悪い処が在ったのなら、それを教えてくれたかも識れない。もしかしたら、忙しさの中で忘れているだけかも識れない。
 私は怖かったのだ。
 誰かに否定される事で、私が夢中で作り上げた『幻影の城』が侵略され、玉座が壊されて仕舞うかも識れない事が怖かったのだ。あの編集者は、私の小説の話をしなかったから、私の方からは決してその話題に触れなかった。
私は逃げた。
 そして、彼女の優しさに甘え、縋ったのだ。
 妻は私に優しかった。私が官能小説なぞを書いている事、その金で以って生活している事に何も云わなかった。私が書いた愚にも付かない話を面白いと云ってくれた。そして、私が編集者に渡した小説の行方に関しても、何も聞かなかった。
 いつからか、私は歩を止めていたのだ。妻が何も云わないのを良い事に、一歩も前に進まず、発条を巻いたブリキの玩具の様に、その場で足踏みをしていただけだったのだ。
 私は夢見る蛹だった。
 誰もが羨む様な、色鮮やかな体へと変身を遂げる日を待ち侘びる蛹。だが何故だろうか、私は羽化出来なかった。羽化をせずに、蛹の儘でいる事を選んだのだ。
私は灰色の空を見上げた。
寒々とした空から、雪が次から次へと降り続いている。自らに定められた運命を、忠実に遂行する。そこには唯、雪が降った、と云う結果のみが残る。
吐き出した煙草の煙が、雪の流れに逆らい空へと昇って行き、やがて消える。そこにも、煙が吐き出され、消えた、と云う結果のみが残る。
私はそれが羨ましい、羨ましくて堪らない。
私に定められた運命は、小説を書く事ではないのかも識れない。しかし、何かの偶然だとしても、曲がりなりにも私は小説を書いている。小説を書くと云う運命に、少しではあるが、触れているのだ。
小説を書いた、と云う結果を・・・結果のみを、私も残したいのだ。
誰かに何かを云われたとしても、心が揺るがず、誇れる事が出来る様な、そんな物語を結果として残したい。
きっとそれは・・・美しく、素晴らしい事なのだ。
――ただいま。
玄関の戸がカラカラカラ・・・と軽い音を立てて開き、買物に行っていた妻が帰って来たのが分かった。
廊下を歩く軽やかな足音が聞こえ、彼女がやって来た。
彼女は、縁側に腰を下ろしている私の貌を見て、立った儘で云った。
――考え事ですか?
私は
――ああ。
と応えはしたが、妻の貌は見なかった。
――表は寒かったかい?
――いいえ、そんなに寒くはなかったわ。
彼女は私の問い掛けに応えてから、口を開かなかった。彼女は冬の寒さの中で、雪を眺めるのが好きだった。あの、何ものにも染められていない、汚れの無い純真無垢な姿が好きなのだと云う。
恐らく今も私の後ろで、小止みなく静かに降り続ける雪たちを、うっとりとして眺めているのだろう。私も妻に倣って、何をするともなしにその光景を見ていた。
暫くして、妻が囁く様にして云った。
――私、思うの。
――何をだい?
彼女は続けた。
作品名:合歓 作家名:橘美生