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合歓

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などと云った、まるで赤の他人の出来事でもあるかの様に、酷く冷めた気持ちに為っていった。しかし時折、妻の笑貌を見るのが辛くなる事には、慣れる事はなかった・・・。
キィ・・・と音がして、扉が開いた。
――ここにいらっしゃったのね。
 妻が私の背中越しに、書きさしの原稿を覗き込んで云った。彼女は、私が書いているのが官能小説である事は識っていたが、いつもそれに関しては触れなかった。ただ、調子はどう、あとどのくらいで出来そう、と云う事を聞いてくるばかりだった。
彼女は優しかった。
私はその度に、申し訳の無い気持ちで押し潰されそうに為るのだ。そして同時に、彼女をこの上も無く愛おしく感じ、傍に居てくれる事へ感謝を捧げる。
――もう直ぐ出来そうなんだ。
――良かったわね。
 彼女は嬉しそうに笑った。膝を折って座り、原稿を書く私の背中にしな垂れ掛かって来る。私は背中でそれを支えながら、原稿を書き進めるのだ。
小説を書いている時、妻はこうやって私の傍に居てくれる。背中に感じる重さは煩わしくはなく、寧ろ心地良い。彼女を支えてやる為ならば、泥にも塗れても構わない、地獄へ落ちる事さえも厭わない、そう思える。・・・最も、地獄と云うものが在ればの話だが。
小説を書いている間、妻が先に話し掛けて来る事は無い。今の様に黙って、いじらしくも私の心臓の鼓動を聞いているのだ。その為、こちらから話し掛けない限り、私たちの間に会話は発生せず、無言の時が過ぎていく。だが、その沈黙は、私にとって規則正しく揺れる揺り籠の様に心地良い。精神が果てしなくどこ迄もどこ迄も、無限に拡散して行くのではないか、そんな気さえする。
妻が傍に居てくれると、私の心は安らぐのだ。記憶には残っていないのだが、酷く懐かしく、何処か遠い遠い昔に感じた事が在る様な心地良さ・・・。私は小説を書き進めながら、記憶の糸を辿っていくが、一向に答えが見つからない。はて、これは一体、何処で感じた事が在る感覚だったか・・・。もしかしたら、母親の子宮の中で、未だ胎児として羊水に漂っていた頃には、こんな風に心安らかな気持ちだったのかも識れない。
それから少しして、原稿が書き上がった。
官能小説を書く場合に、私はあまり推敲をしない。いや、最初のうちはしていたのだが、編集者からは何か云われる事は少なく、自分でもその内容に拘りなど無かった為に、次第に推敲をしなく為ったのだ。・・・達成感など皆無であり、自分が書いている内容にも誇りが持てない。それ故に、遣り甲斐を感じる事も無い。いつでも書くのを止めてやろうと思いつつ、いつ迄も金の為に惰性で書き続ける・・・。
その様な自分が酷く惨めだった。
官能小説などではなく、もっと別の・・・・・・そう、幻想小説でならば、何度も何度も推敲するだろう。この構成はどうだろうか、ここは別の言葉の方が良いのではないか、ああ素晴らしい表現を思いついて仕舞った、書き直さなければ・・・。
そんな事を考え考えしながら、得心がいく迄、推敲を行うに違いないのだ。
書き上がったとしても、そこで終わり・・・完成などでは決してなく、寧ろそこからが始まりであり、それが喜びでもあるかの様に・・・・・・。
・・・だが、そんな日を指折り数え、待ち侘びたとしても、訪れる時があるのだろうか。
気が付くと、背中の妻は規則正しい寝息を立てていた。
立ち上がったのなら、起こして仕舞うだろうか。私は出来たばかりの原稿を机の端に寄せ、また別の雑誌の為の、小説の続きを書く事にした。
まるで、この瞬間が永遠に続くかの様に、背中の彼女が眠る儘にさせておく。

何日かに一度、医者が妻の貌に巻かれた包帯を取替えにやって来る。
医者は看護婦を伴って病室にやって来て、手馴れた様子で包帯をクルクルと外していく。包帯が貌を覆う面積が小さくなり、隠されていた火傷の跡が見えそうに為る位の処で、私は病室を出て、ブラブラと病院の中を歩き廻る。一頻り病院内を彷徨くと、私は廊下の一角に腰を下ろし、煙草を喫む。そして、包帯の交換が終わった頃に、煙草の匂いを幽かに漂わせながら、妻の待つ病室へと帰るのだ。
「何処へ行ってらしたの?」
 と優しく笑って迎えてくれる妻に、私は
「ちょっと煙草を切らして仕舞ってね」
 などと云って、いつも嘯いた。まさか、醜く爛れているであろうその貌を見たくない為だ、とは云える筈もなかった。
 妻と私がこの病室に入ってから、もう何度、医者が包帯を取替えに来たのだろう。私はその度に病室から逃げ出し、真実から・・・向き合うべき彼女の貌からも逃げるのだった。
今日も、医者が看護婦を伴って、妻の包帯を取替えに来た。
私は煙草が切れた振りを装い、病室を出て、ブラブラと院内を歩き廻り、廊下に置いてある煤けた長椅子に腰を下ろした。外では蝉が勢い良く喚いている。まるで、休む事、止まる事を識らないかの様にさえ思える。
煙草を銜え、火を点ける時に、ふと思った。
蝉は・・・彼らは、気の遠く為る様な長い時間を土の中で過ごす。しかし、その時間の長さに比べると、地上での時間は怖ろしい程に短い、短すぎる。彼らにとって、真暗闇に支配された空間の中で、身動き一つせずに夢を見ているのと、地上で思う存分鳴き散らかし、羽撃くのとでは、どちらが幸せなのだろうか。
・・・私が蝉ならば、思う存分羽撃くのではなく、地面の下にいる方が幸せな気がする。地上に出て仕舞ったなら、後は死ぬしかない。それなら、ずっと暗闇の中で自由に憧れていた方が良い。幸せな気持ちの儘、夢を見ていたい。
彼らは、永遠とも感じる暗い暗い地の底から這い出して、念願の羽を手に入れる。
しかし、その羽を奪われ、二度とは飛ぶ事も出来ず、死ぬ事も出来ずに地面を這い蹲り続けなければならない運命が待っているとしたら、彼らは何を思うのか。
病室に戻ると、妻の貌には真新しい包帯が綺麗に巻かれていた。
「何処へ行ってらしたの?」
「ああ、煙草を切らして仕舞ってね」
と、私たちはもう何回と繰り返した遣り取りを、もう一度繰り返した。手持ち無沙汰だったのだろうか、彼女は胸の辺り迄伸びた髪を、手で弄っていた。貌を火傷する前には、彼女のその癖を見るのが好きだった事を、私は思い還していた。
それから私は眼を閉じた。
いつもと同じ様に、美しかった妻に会いに行く事にした。私が目蓋を下ろしている処を見たのなら、彼女はどんな事を感じるのだろうか。分からない、分かる筈もないのだ。今の私にとっては、眼の前の妻が何を感じ、何を考えているのか、と云う事よりも、思い出の中にだけ住む、あの頃の妻の方が大事なのだから。
「ねえ」
 現実の世界の妻が、私を呼んだ。私は眼を瞑った儘、なるべく優しげな声でその呼び掛けに応えた。
「なんだい?」
 それからやや間を開けて、妻が独り言の様に呟いた。
「もしも明日晴れたなら、また・・・・・・海に行きたいわね」 
 ゆっくりと眼を開けると、妻が私の貌を見ていた。包帯の隙間から見える双眸は、過去を懐かしむかの様に潤んでいた。
「そうだね」
作品名:合歓 作家名:橘美生