合歓
すると、月光を浴びて銀色に輝く砂浜に、たった一人で立ち尽くしている妻の姿が眼に入った。彼女は波の満ち引きを、飽きる程に眺めていた。そして、一頻り波を見つめると、次は夜空に浮かんだ月を眺める。
どの位の時間が経っただろうか、私は妻の許へ向かった。
――眠れなくて。
困った様子で、彼女はそう云った。私は腰を下ろし、妻にも座る様に促した。白い砂が、ひいやりと心地良かった。それから私たちは、青い月明かりの下で、真黒な夜の海と、夜空を埋め尽くす程に巨大な月を交互に眺めた。夜風が私たちの体をそよそよと撫でていく。
妻が隣で小さく欠伸をした。
――眠いのかい?
――ええ。
部屋に戻ると、彼女は微かな寝息を立てながら、直ぐに眠りについた。眠れない、そう云っていたのが嘘の様だった。私は窓際の椅子に座り、夜が更ける迄、目蓋を下ろした、優しげな彼女の寝貌を見守っていた。
次の日も海で時間を過ごした。
そうして結局、旅行へ行く事はなく、私たちはその海で二週間ばかり滞在した。
妻が火傷を負ってから、私は全く小説が書けなく為って仕舞った。
話の筋が一向に浮かんで来ないのだ。そればかりではない。ペンを持ち、机に向かうと、途端に頭がぼやぼやとし、左の肩が重くて重くて堪らなくなり、筋を考えるどころか、文字さえも書けなく為る。
もう、とても長い長い間、何も書いていない気がする。
今迄、どの様にして書いてきたのか、それが思い出せない。記憶を誰かが盗んでいったかの様に、すっぽりと抜け落ちている気がする。そのせいでだろうか、自分が物書きだったという実感が湧いて来ないのだ。
私の担当だった筈の編集者からも、次第に連絡の回数が少なくなり、やがて途絶えた。私は彼らにとっての『必要』ではなくなって仕舞ったらしい。
・・・どんな形であれ、どんな内容であれ、本当は書く事が好きだったのだ。私は今迄それに気が付く事が出来なかった。ものを書く事が当たり前で、ものを書いている自分が当たり前だった。私は何らの疑問も抱く事無く日々を過ごし、そして、失くして仕舞ってから、初めてそれに気付かされた・・・。
編集者が私に連絡を寄越す事が無くなったのと同じに、私が自分から妻に話し掛ける事も無くなった。
あの頃は、これと云った用も無いのに、妻に話し掛けた。彼女はそれにいつも応えてくれた。そして彼女も、特に意味も無いままに、私に話し掛けた。私はそれにいつも応えた。だが今では、妻が話し掛けてくる言葉に、ただ夢遊病者の様に応えるだけだった。
妻と小説。
私は、私の根幹を成し、心の拠り処と為ってくれていたもの・・・・・・妻と小説を、失った。
それから私は・・・私の存在は、酷く曖昧に為った。
小説を書く事で、妻に触れる事で、私はこの世界に在る事が出来ていたのだと、気付かされた。脳が心地良くとろけ、正体不明の、判別の付かないものと混じり合っている・・・・・・そんな感覚をしばしば感じる様に為っていた。
・・・今この病室で、目の前の包帯が巻かれている女性を見ている私は、一体誰なのだろうか?
と云った、思考が麻痺し、何が何だか分からなく為って仕舞う瞬間が、不意に訪れる。
私の存在は既に意義を失い、目的も無く死者の様に生きている。
・・・私は何故ここにいるのだろうか、何の為にここにいるのだろうか。
分からなかった。
答えなど在りはしなかった。
妻は・・・美しかった妻は泡沫の夢と消えた。私の手を引いてくれる彼女はもういない。
私は殻の中に還った。
私は病室で、良く眼を瞑る様に為った。
瞳を閉じると、そこにはただただ黒漆の様な暗闇が広がり、私の世界はしぃん・・・とした静寂の世界に変貌する。最初はそれが心地良かった。何も見なくとも良く、何も聞かなくとも良い。そうする事で私は、自分が今置かれている現実から眼を逸らそうとした。
程無くして、私は目蓋の裏の世界で、妻の貌を思い出そうとする様に為っていった。写真は失われて仕舞っていたので、最早妻の貌は、私の記憶の中にしか存在しない。真黒闇に浮かぶスクリーンに、映写機で以って彼女との思い出を映し、私はそれを客席に座って眺める。だが、銀幕に映る彼女の貌は、どうしても見る事が叶わない・・・・・・思い出せないのだ。どれ程思い出を探っても、妻の貌は思い出す事が出来なかった。
それでも、今の妻を見つめているよりは遥かに良かった。病室は私にとって、絶え間ない責め苦を受け続けるためだけに存在する、孤島の牢獄でしかなかった。誰一人として助けてくれる事はなく、縋る事も出来ない。私は心の奥底へと救いを求め、現実には存在し得ない理想郷を作り出した。
私は記憶の中の映画館に夢中に為った。
現実の世界の妻の貌は、焼け爛れ、引き攣り、無残にも変貌している。だが、眼を瞑ったなら、そこにはそれが無い。貌は見る事は出来ないが、楽しかった頃の思い出がある。
・・・この儘こうしていたのなら、いつか不意に妻の貌を思い出すのではないだろうか。
妻から逃げ、私は縋る様な気持ちで、いや、逃げて逃げて幻の映画館に通い詰めた。さあ、今日はどの思い出を見る事にしよう、この記憶なら彼女の美しかった貌が思い出せるかも識れない、そんな事を考えながら、私は病室のベッドで横たわっている妻から眼を逸らし、逃げ出した。
映画館には、今の私には手に入らないもの、私が渇望して止まないものが在る。私は嘗て彼女に夢中に為った様に、今度は映画館に夢中に為った。次第にその映画館で過ごす時が増え、私は一日の大半をそうして過ごした。しかし、あの頃とは違い、決定的に欠けているものが在った。
・・・私を殻の中から救い出してくれた彼女と云う存在・・・・・・『救い』がそこには無かった。
私が映画館を訪れる様に為ってから、長い時間が過ぎた筈だったが、彼女の貌は依然として思い出せない儘だった。そして幾度も幾度も、その空虚な気持ちを抱え、私はそこを後にする・・・眼を開けるのだ。暗闇に細長い光が射し、眼の前には包帯を巻かれた妻がいる。
気分が悪い。
眼を開けて彼女を見ると、何故だろうか、気分が悪く為って仕舞う様に為っていた。しかしそれは、爪が伸び、髪が伸びるのと同じで、自分では止め様もない。私は、自分が抱く様に為って仕舞った感情を、妻には気付かれない様に努めた。
私は書斎に篭り、締め切り間近の小説を書いていた。
小説とは云っても、付き合いが在るのはカストリ雑誌が殆んどで、書いている内容も低俗な官能小説が多かった。
私が本当に書きたかったのは、未だ誰も見たことも無い様な、蠱惑的な世界を描く幻想小説だったが、こちらは芽が出ず、歯噛みをしながら官能小説を書き、生活を送っていた。
・・・初めのうちは、自分が書いた小説が載っている雑誌が店先に並んでいるのを見て、嬉しんだりもしたのだ。しかし、次第に自分が書いているのが、官能小説であると云う事実が強く意識され始め、もう元には戻れない様な、道を踏み外して仕舞った様な、鬱蒼とした背徳感が私を襲った。だが、その感情も次第に薄れ、最後には
――ああ、載っているな。