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合歓

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焼け爛れているのは包帯の隙間から見える髪の毛の部分だけではないか、と思いを巡らす。もしかしたら、貌の方は無事であり、頭だけで十分なものを、貌まで包帯を巻いているのではないか、と。妻だけでなく、医者までもがぐるになり、私の狼狽する様子を見て嘲笑っているのではないか、と思う。
だが、現実はそうではない。
妻の貌は炎によって蹂躙されており、彼女も医者も私を騙してなどいない。一度失ったものは二度とは戻らない。私は彼女を永遠に、失った。
・・・私は、妻に出会う迄一人きりだった。何一つとして持っていなかった。何一つとして得る事はなかった。そのせいで私は、『失う』と云う事を識らなかった、識らない儘に彼女と出会って仕舞った。そして私は、妻を・・・妻への愛を失った。初めて感じる喪失だった。

業火は私のものだけではなく、妻の写真も凡て焼き尽くし、永久にこの世界から消し去って仕舞った。
長い長い間、私たちは、同じ時の流れを共有して来た筈であり、その時の流れの中にお互いが在る事、それ自体が最早当たり前である筈だった。太陽を忘れる人がいるだろうか、雪を思い出せない人がいるだろうか。それ程に私たちは、お互いが在る事が当たり前だった。
だが、今と為っては、どうしても彼女の貌が思い出せない。
眼の前には、包帯で包まれた妻がいて、ベッドに横たわっているが、私は包帯の下の貌を見る事は無く、この先も見る事は無いだろう。
私は時折、眼を瞑って夢想し、思い出の中の彼女を思い出そうとする。
美しかった、確かにそれは憶えており、この体と脳に刻み込まれている筈なのだ。しかし、『美しかった』と云う事は憶えている筈なのに、一体全体、どの様な貌をしていたのかが、今と為っては思い出す事が出来なく為って仕舞った。
私はその度に溜息を付く。
すると決まって、眼の前の包帯の女は、
「まあ、どうなさいました」
 と、優しげな声で甲斐甲斐しく私を労わるのである。それは火傷を負う前と、何ら変わりのない声であり、寧ろ、火傷の事など何も識らないかの様でさえもある。
 そして、彼女のその声を聞く度に、私の胸は鈍痛を感じるのだ。突き刺すと云うものではなく、切り付けられると云うものでもなく、心臓を鷲掴みにされ、握り潰されると云うのにも似た感覚。
 その鈍痛は、私の罪の意識の顕れに他ならない。
 私は既に、妻を愛していない、愛する事が出来ない。貌を見る事はおろか、あれ程に求めた彼女の体にも、あれから一度たりとも触れていない。
火事の前と後では、私の心の中は、全くに変わって仕舞っている。しかし妻の心は、何一つ変わっていないのだ。
 妻は変わらずに・・・私を愛している。
 包帯を巻かれ、全くに容姿が変わっているにも関わらず、その痺れる様な囁きが、麗しい仕草が、優しい気遣いが、「愛しています」、と切なげに云っている。
 だからこそ、私は妻を愛していなければならない筈なのである。だが、私はもう妻を、火傷を負った彼女の貌を愛する事が出来ない。・・・私は妻に嘘を付き、騙している。彼女に応え、愛している振りをし続けている。
 妻に対する裏切りは、呪詛返しの様に私に返って来て、この心をジクジクと苛んでいる。

私が彼女と結婚してから、未だ間も無い時分の頃である。
二人して、岩手のと或る地域を旅行しようと云う事になった。着替えなどを入れた鞄を持って、列車にガタゴトと揺られ、旅行するのである。
私も妻も窓際の席が好きだったから、二人で頬杖を突いて向かい合い、お互いに見詰め合い、話し合いしながら、窓の外の風景を見ていた。山や古びた民家しか無く、列車がどれだけ走っても、あまり代わり映えのしない風景が流れていくのだが、そのせいで列車自体の速度が、ごくゆっくりとしたものに感じられる。
――何も無いのね。
――ああ、そうだね。
 などと云うやり取りを何度もしたのを憶えている。
トンネルを抜けると、不意に視界が開け、海が見えた。松林と白い砂浜が続き、海は硝子の様にしんしんと透き通っている。
――綺麗ね。
 妻が眼を細め、ポツリと云う。
――ねえ、行ってみましょうよ。
私たちは、次の無人駅で降り、その儘、白浜へ向かった。そこには誰一人としておらず、私はまるで、世界に私と妻しか居なくなって仕舞った様な、そんな目眩じみた錯覚に陥った。だがそうだとしても、私は構わなかった・・・。
幻想的だった。
私は波打ち際に腰を下ろした。妻は履いていた靴を脱ぎ、白いワンピースの裾をたくし上げ、ぱちゃぱちゃと波と戯れる。
穏やかな波は、砂浜に寄せては白い飛沫と為って消え失せ、その飛沫が消え失せたと思うと、また次の波が押し寄せて来る。妻は、あどけない子供の様に、心の底から楽しそうにしている。その様な妻を見ている私もまた、心の底から楽しかった。
――ほら、あなたもいらっしゃいよ。
 被っていた麦藁帽子が風に飛ばされて仕舞わない様に、彼女は左手で抑えながら、私の方を見て微笑んだ。・・・何とも愛おしく、美しい笑顔だった。
――ああ。
 私はそう応えたけれども、本当に楽しそうな彼女の姿を、もう少しだけ眺めていたかったから、座った儘立ち上がりはしなかった。妻は、
 ――あなたはいつもそう。
 と悲しそうな貌をし、また少しばかり波と戯れた後で私の処迄やって来て、隣に腰を下ろした。帽子を脱いで、私の肩に頭を凭せ掛け、彼女は波の音を聞いていた。私も眼を瞑り、彼女がする様に、波の音を聞いていた。
――少し歩かないか。
 私がそう聞くと、妻は
――ええ。
 と嬉しそうに笑った。私は麦藁帽子を彼女の頭に被せてやった。
妻が先に立って波打ち際を歩き出した。私は数歩離れ、彼女の後ろを歩く。
白い砂浜はどこ迄も遥かに続き、終わりが見えない。無人島の様に果ての無い砂浜を、妻がサクサクと、砂を踏み締めながら歩いていく。風が吹くと、ワンピースの裾がひらりひらりと舞い、すらりと伸びた細い足が見える。私は小さな足が付ける足跡を、態と避けて歩き、彼女を追い掛ける。
ふと妻が踞んで、何かを手に取った。それは綺麗な形をした貝殻だった。
表面にこびり付いた砂を軽く払い、少しの間手で弄びながら、その貝殻を眺めると、眼を閉じて耳に宛がった。
――波の音がするのよ。
 彼女はそう云って、その綺麗な形をした貝殻を私の耳に宛がった。
 波の音はしなかった。
 ただ幽かに、ゴウゴウと云う、耳障りで、小さな嵐の様な音が聞こえるだけだった。
――ああ、本当だね。
 私がそう応えると、妻は笑ってくるりとこちらに背を向け、再び歩き出した。
 後ろを振り返ると、私たちが付けて来た足跡の幾つかは、波に攫われて仕舞っていた。
その日は、海の近くの宿に泊まる事にした。
二階の、海に面した部屋を用意して貰った。畳の匂いがつんと鼻に香る。私と妻は夕食を取った後で二人して窓辺の椅子に座り、無言で夜の海と月を眺めていた。
月明かりが、真白く彼女の肌を照らしていた。
真夜中に、私は潮騒の音で、ふと眼を覚ました。
隣を見ると、妻がいなかった。
私は窓の処に行き、外を見た。
作品名:合歓 作家名:橘美生