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合歓

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私は、長年連れ添った妻が、真白い病室のベッドの上で上半身だけを起こし、窓の外の風景を物憂げに眺めているのを見ていた。
 ああ、私の大切だった筈の人が腐っていくのだ。
 思わず貌を背けずにはいられない。
 あれ程艶めいていた筈の髪も、すっかり業火に焼き払われて仕舞い、生まれて直ぐの赤子の様に、処々に生えているだけに為っており、これは乱雑に巻かれた包帯が多少なりとも隠してくれている。
 肝心の貌の方は、やはりその包帯の下に隠されているのだが、こちらは念入りに幾重にも巻かれており、頭の方と違って見る事は叶わない。いや、見ずとも良いのだ。
 妻は火事に巻き込まれたのである。
命に別状は無いと、医者は云ってくれた。その後で、貌の火傷は一生治らないと、私に云った。
妻は死なない。だが、死が訪れる迄、貌の火傷を背負って生きていくのだ。そしてそれは妻だけではなく、私にも云える事であり、私もまた、妻が死ぬ迄火傷を背負っていかなければならなく為った。
眼を逸らす事、逃げる事などは出来なかった。頭を鉄鎚でがあんと殴られた気がした。それなのに私は、鉄鎚を振り下ろした相手を殴り返す事が出来ない。妻の貌を焼いた炎に復讐する事が出来ない。
どうして、貌なのだろうか。
手や足、体だったなら、どんなに良かっただろうか。もしもそうだったとしたら、どんなに嬉しいだろうか。だが、それは希望・・・・・・夢であって、現実はそうではない。美しかった彼女の貌は、猛り狂った炎が焼き尽くし、奪い去って仕舞った。
突然にやって来た受け入れ難い現実を、私は嘆き、そして悲しんだ。

 私は売れない物書きだった。
 小説を書き、次の号が出版されるかどうかも定かでない、廃刊と隣り合わせの大衆向け娯楽雑誌に掲載して貰い、その金で生活していた。私は物心が付いた頃から親しい友達も無く、一人自分の殻に閉じ籠っている事が多かった。暇さえ在れば本を読んだ。いや違う。他人と触れ合う事が出来なかった私には、本を読む事しか出来なかったのだ。
 本は、現実には存在し得ない、素晴らしい世界を教えてくれた。私は何もかもを忘れ、没頭した。自分がこの世界の住人だったならば、と考えながら。・・・・・・深く深く深く、呼吸する事すら忘れて、自らの体を陽の光の届かない深海へと沈めていくのだった。
物語を作り上げた作者は、必ずその作品に何かしらの言葉を込めており、その言葉が強ければ強い程、私には魅力的なものに感じられた。そして、その言葉に触れる事で、物語の作者達と会話が出来る気がしていた。
 しかし私は気付く事に為る。
 私は彼らが作品に込めた言葉に、時や場所を問わず、好きな時に好きなだけ触れる事が出来るが、私の言葉は彼らには如何しても届く事はないのである。私と彼らの間には、連綿と続く巨大な断絶が横たわっていた。その為、本を読み終わって仕舞うと、今迄聞こえていた彼らの言葉がぷつりと途切れ、激しい空虚感に襲われる事と為る。
・・・・・・ああ、置いていかないでくれ、私を一人にしないでくれ。
私はそれを忘れる為に、また新しい本を読み、読み終わったならば、また別の本を読んだ。死ぬ迄泳ぎ続ける回遊魚の様に、自分ではそれを止める事が出来なかった。そうする事で、寂しさを紛らわそうとした。
 本を読む事は、私にとって、彼らの言葉を聞くと云う事だった。
 だがそれは、彼らが一方的に投げ掛ける言葉を、ひたすら聞き続けると云う事に他ならなかった。そしてその言葉たちは、私を含めた大勢に向けられたものであって、私の為にだけ存在するのではない。彼らにとって、私は取るに足らない、ちっぽけな存在でしかなかったのだ。
 この事に気付いて仕舞ったのは、いつからだったか。
 私は、自分の言葉を誰かに聞いて欲しかった。私だけの為に、言葉を云って欲しかったのだ。
だからこそ、一方通行ではなく、私の言葉に応え、私の為の言葉を云ってくれる彼女に出会った時、私は救われたのだ。ただ言葉を聞くだけではなく、自分の発する言葉が相手に届く事が嬉しいと云う事を私は識った。自分の為だけに存在する言葉が、嬉しいと云う事を私は識った。彼女は私の手を引き、殻の中から救い出してくれた。私は殻を破り、外の世界に触れる事が出来た。
もしも彼女がいなかったのなら、私は未だに殻の中に閉じ篭もり、死が訪れる迄、物語の世界に埋もれていたに違いない。誰かが救い出してくれる事を願いながら、膝を抱えていたに違いない。暗闇よりも猶暗い海の底で、雪の様に見える生き物達の死骸を見続けていたに違いないのだ。
私の魂は、彼女によって救われたのだ。
彼女は私に色々な事を教えてくれた。人を愛する幸せ、人に愛される幸せ・・・。他にも数え切れない事を教えてくれた。私は彼女が教えてくれた事の凡てを、余す事無く胸に刻みつけた。
だが終ぞ、焼け爛れた貌をした女の愛し方は教えてくれなかった。

 私は妻を愛していた。
この上も無い程に愛していた。どれ程歳月が過ぎたとしても、どれだけ姿が変わろうとも、愛する事が出来ると考えていた。私は今迄の寂しさを忘れる為、貪る様に彼女の心を、体を求めた。妻は物語とは違い、私を置いていかなかった、私を一人きりにしなかった、私の凡てを受け容れてくれた。
そして妻も亦、私を愛してくれた。必要としてくれた。
何よりも妻が大切だった。そして、妻を大切に想う気持を、私は素晴らしいもの、誇らしいものと思っていた。これから先も、この気持ちが失せる事なく、心の中に在り続けると思っていた。無くなるなどとは、露程にも思わなかった。
だがそれは、砂上の楼閣だった。
 砂の上に建てられた塔が、奇跡的に均衡を保っていただけだったのだ。立っていたこと事態が、幾つもの偶然の上に成り立っていた奇跡であって、いつ崩れ去って仕舞ってもおかしくはなかったのだ。そして、瓦礫と化した塔は、直ぐ様砂の下に沈み、最早その姿は砂上に残っていない。私の妻へ愛と、彼女の美しかった貌は瓦礫と化し、地の底深くへ沈んでいった。
 妻が火事に遭って仕舞ってから、私は彼女の貌を真直ぐに見る事が出来なく為った。
包帯でぐるぐる巻きにされた、ミイラの様な彼女。私はその下に隠された、恐るべき真実・・・焼け爛れた貌を、未だに見ていない、見る事が出来ていない。
私は、淡い淡い、泡の様な幻想を抱いているのだと思う。風が吹けば、ぱちんと消えて仕舞う、しゃぼん玉の儚さと脆さにも似た幻想・・・。ひょっとすると、これは何かしらの間違い・・・『夢』であって、包帯の下の妻の貌は、以前と何も変わる事無く、美しい儘なのではないか、と。
彼女はよく私をからかって遊んだ。その度に私は・・・私たちは、心の底から笑いあった。
幸福な時間だった。
だから、今度のこれもその悪戯であり、油断した隙に彼女が包帯を脱ぎ捨てて、私を驚かそうとしているのではないか、と時折思う事がある。小さな願いは、未だ心の片隅に残っており、ほんの少しだけ私は期待をしている。・・・そう、ほんの少しだけ。
作品名:合歓 作家名:橘美生