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ぼくたちに傘はない

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 それから冴は姿を見せなくなった。いつも放課後にはこの屋上に続くドアの前にきて、ときには俺より早くこの場所についてひと眠りしているときだってあったのに。
不思議なことに、この一週間はからりと晴れた。あの日に痛いほど耳に残った雨音が地球に訪れたものだったなんて嘘みたいに。これまでの雨がぜんぶ嘘だったかのように。六月も下旬になり、もう梅雨明けかなあと思いながら、心の隅であの湿った空気の中で笑う冴の姿を描いていた。鞄の中にある彼女の桃色の傘はいつ返せばいいのだろう。ふと廊下で彼女を見かけても、冴はこちらに気づいていないのか気付かないフリをしているのかで、足早に通り過ぎて行ってしまう。
俺は唐突に突き付けられた気がするのだ。これがきっと、本来の関係だったのだと。それぞれの生活の中でただすれ違うだけの関係なのだと、誰かがささやいている。しかし俺は考えてしまう。彼女のことを知りたい。彼女にまとわりつく寂しさのわけを知りたい。あんなことを言っても言われても、俺は結局最初にいだいた感情と何ら変わりないものを胸の中に持っていた。これはどんな感情と似つかわしいのだろう。拾った子猫に対する感情?それともドラマや映画の綺麗な悲劇のヒロインに持つ感情? いや、全部違う。きっと、この世の中にある感情全部と違うもの。きっと、もっと宇宙単位で持つ感情。そんな壮大なものの気がしてならなかった。それくらいに、俺の胸は冴の所為で痛みっぱなしなのだから。
 昼休みにいつものように、クラスのやつと校庭でバスケをした。ここしばらくぬかるんでいて思い通りに走れなかった校庭がからからに渇いている。上を見上げれば、空は青い。ああ、なぜだろう、凛とした彼女の匂いを探してばかりだ。このまま二度とこの世界には雨が降らないんじゃないかと思うくらいに。
 そんな一週間の後の月曜日、朝はよく晴れていたというのに、午後の授業の合間から段々と雲が出てきた。窓際の自分の席から空を見上げて心なしか期待がざわつく胸の内を抑えた。解けない数式をノートに写して、彼女のことを考える。一週間話をしなかっただけで、もうこの世界に彼女がいなくなってしまったかのような気がしてならない。また心がざわついた。
 放課後になるといないとわかっていても屋上に続くドアの前へ来てしまう。階段を上り、彼女がいないのを確認して、ため息をついて、階段を降りる。先週もこうしていたけれど、やはり彼女の姿はなかった。俺はおとなしく家へ帰ってしまおうと下駄箱へ向かった。ふと廊下の窓の向こうに目をやると、雨がぽつぽつと降り出してきていて、鞄の中にある桃色の傘を思い出した。
 そして彼女のことを思い出したら、彼女が目の前に現れた。
「あ、冴っ!」
「……」
 冴は下駄箱の前で立ち往生していたが、俺が声をかけるとビクリと反応して視線をこちらに向けた。しかしこちらを見ただけで、なにも言わない。なぜだろう、俺が驚きすぎてあまりに腑抜けた声を出したからだろうか。そんな不安を見つけた途端、彼女が俺を呼んだ。
「相馬先輩」
「おお、相馬先輩だよ。久しぶり、冴」
 彼女の表情は冷え切っていた。出会った日のようなとっつきにくい気高さが彼女をまるごとくるんでしまっている。そんな彼女とは反対に俺だけがこんなに浮かれている気がして恥ずかしくてならない。しかし、彼女に会えてとても嬉しいのは確かなのがもどかしかった。
「靴が、無いんですよ」
 そういって、彼女の下駄箱であろう四角い空間を指差した。彼女の下駄箱はドアがひん曲がっていて、他のと比べて黒く煤けていた。きっとこれも、クラスの人たちの仕業なのだろう。
「どうしましょう。わたし、雨だし、裸足で、電車のって、傘もないし、大変です」
 彼女はいつもより遅めの口調で俺に訴える。前に屋上のドアの前で話した時のような生気や活気が皆無である。表情も少なくて、とても疲れているように見えた。出会ったあの日からもろそうだったのに、今はもう罅割れて少しでも彼女に触れればそのまま死んじゃいそうなほどの儚さだ。
「じゃあ、俺の靴を履け」
 と言って、自分の下駄箱を開けて革靴を彼女の足元に放り投げる。冴は遠慮がちに自分の足を入れたけれど、不満げな顔をして、
「ぶかぶかですよ」と、俺に言った。
「無いよりマシだろ」と、俺は反抗する。
「先輩はどうするんですか」
「上履きで帰る」
「じゃあいいですよ、私が上履きで帰ります」
「電車に乗るの、上履きじゃ恥ずかしいだろ」
「だって、先輩が」
「いいんだよ、お前は女の子なんだし」
「いい人ぶりたいんですか」
 彼女の言葉が突然突き刺さった。彼女の強くなる口調に衝撃で息が出来なくなる。
「偽善的ですよ、先輩はいつだって。きっと、最初から」
「独善的ですよ、自分が犠牲になれば人が喜ぶものだとでも思っているんですか」
「感傷的過ぎますよ、同情なんですか、わたしが可哀そうにみえるから?だからそばにいたんですか?」
 反論が出来ない。胸が苦しくて、言葉と感情の渦が脳味噌でも胸の中でも大暴れしていた。彼女の凛とした冷たい言葉が降ってくる。ザアザアと、ザアザアと。なのに俺には傘がない。全部飲み干さなくてはならない。きっと彼女の手を繋ぐにはそれ相応の覚悟が必要だったのだ。そんなことに今気がついた。思考が止まる。 “俺はいったい彼女をどうしたかったのか” あの時掴んだ彼女の手首の理由について。答えがでない。言葉にするのは酷く難しい感情だ。これは一体、どんな言葉なら表現できるのだろう。
「優しさを振りまけば、わたしも媚びると思ったんですか」
 彼女の言葉におびえる。トドメの言葉は出てきてほしくない。きっと今度こそ、会えなくなるから。
「先輩は生きるのが上手です、ほんと、憎たらしい」
 彼女が笑った気がした。俺は飲んだ言葉と滞った感情を吐き出すように、彼女の手首をまた掴む。
 衝動だ。今度こそ、この雨の中どこかへ連れ去ってしまいたい。彼女がもうこんな笑い方をしなくて済むような場所へ行かなくちゃ。俺にはそんな義務も権利もないけれど、でも、行かなくちゃ。
 彼女は困ったような顔をする。俺はそんな彼女に早く靴を履くように言った。
「デートをしよう」
 俺を睨んで歪んでいた彼女の瞳がゆっくりとまるまっていったのを見た。

 久しぶりの雨の匂いに胸がいっぱいになる。俺たちはまたこのひとつの桃色の傘にふたつ身を寄せ合いながら歩いた。結局彼女は俺の革靴を履いた。でも俺が上履きで外に出ることを嫌がり、職員玄関の隅に置いてある来客用のスリッパを取り出して俺に突き付けた。
「上履き、先輩これからも使うんだから」
 まるで自分はこれからずっと使わないみたいな言い方をしたので少し胸がざわついた。
作品名:ぼくたちに傘はない 作家名:らた