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ぼくたちに傘はない

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 俺は気がつくまでずっと彼女の手を握っていた。まるでどこぞのカップルのような光景だろう。俺が街を歩いたときにみるカップルもこんな風なのだろうか。そんなに幸せでもないけれど一緒に歩くのだろうか。ふと彼女の方を見れば、俺の靴のサイズが大きく冴の足と合わなくてとても歩きづらそうにしていた。いつも以上に歩幅がせまくなる彼女の足取りを合わせるのはとても難しく、たまに転びかけては頭に雨を受けて、もう背中はぐっしょり濡れていた。彼女の泣き声が背中に張り付いて取れないみたいに。
 一週間前と同じ光景だ。雨が降って、傘が桃色で、彼女が泣きそうだ。俺は雨音を聞きながらずっとこのままでいたいと思った。彼女も俺も満たされちゃいないのに、でもこれでいいと思った。こんな壊れ物の彼女にこれ以上踏み込んだらどうなるのだろう。彼女に嫌われているだろうか。それとももう既に嫌われているのだろうか。俺が彼女に抱いているこの感情は一体何なのだろう。とても自己中心的で、楽観的で、投げやりな感情だ。ただ彼女を引き留め続けて、普通の人と同じレールの上を歩かせたいのだろうか。つんとつっかかる土のにおいにすこしおかしくなった。だって、道はここまでコンクリートの灰色なのに。
 俺たちは駅の近くの公園に入って、公園で一番大きな木の下にあるベンチに腰かけた。傘は差さなくても雨が肩に降ることはなかった。俺は他愛もない話を彼女に投げた。元気だったか、と聞けば、いいえ、と答える。雨だな、と言えば、雨ですね、と呟く。
「傘、返そうと思ってたんだけど、冴は来なかったから」
「……ごめんなさい」
 彼女の声が雨音に掻き消されそうだった。彼女の顔を見ると、俯き、自分の足元ばかり見ている。
「こないだ、先輩に八つ当たりしたこと、謝らくなくちゃとずっと思っていたんですけど」
 彼女の握りしめた手のひらが震える。
「わたし、自分のことばっかりですよね」
 俺はその言葉に息を呑んだ。意外な言葉が出てきたと感じたけれど、その言葉をまるで彼女が言うことを知っていたかのように俺の胸にしっくりしっとり染み込んでいった。
「先輩に好きなだけ迷惑かけて、わたし、とても、先輩に救われていたのに」
 あの日みたいに痛くない彼女の言葉は、次々と俺の呼吸やこの雨音の中に溶け込んでいく。ただひたすらに、しゅわしゅわと耳に残る音を立てている。俺は息をひそめてその音を聞く。
「今日だって、さっき、酷い言葉を言いました。でもね、嘘じゃないんですよ。雨の日は、とても心が無防備になる気がします。本音がするする旅に出て行ってしまいます。素直になれる気がしていたんです。ああ、きっと、みんなこうやって生きていくもんなんだって。なのに、どうしてでしょうか。わたしの知らない間に、知っていたときに、先輩は、いつでも引き止めてくれたのに」
 冴が顔をあげて、俺の瞳を真っ直ぐにみた。
「逃げていたのはわたしのほうなんですよね。先輩は知ろうとしてくれたのに」
 彼女の黒い瞳が俺を貫くように刺さった。
「――俺さ、ずっと考えていたんだけど」
 彼女の心を知ろうとした。彼女の心の鍵はとても固かった。ダイヤモンドの砕き方なんて俺は知らない。
「俺がね、冴に構うのは、俺もよくわからないんだ。ただ、この雨の中にひとりでいたら死んじゃうんじゃないかと思って、それで、冴の腕を掴んだんだ。本当にそれだけで、それっぽっちの気持ちで、近づいたり突き放したり、無責任に傍にいたなあって、反省したよ。でもね、一緒にいたかったから、いまも一緒にいるんだよ。消えちゃうんじゃないかって、心配で」
 彼女の瞳が歪む。今にも泣き出しそうな顔をして、俺を見つめている。
「でもさあ、結局答えなんてどれも不確かだし、あんまり必要ないんだ。俺は冴と一緒にいるのが楽しいよ、それだけじゃ足りない?上手くいかない? でも、どうしたらいいかわかんないんだ。踏み込んでいいのか、駄目なのかも。ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんないよ。俺はお前が知ってる通りの阿呆だと思うからさ」
 彼女の瞳から一粒涙が落ちた。ぽたり、一粒落ちたら、またぽたり、ぽたぽた、ぽたぽた、真夏に放り投げられ、溶けだして止まらない氷のように綺麗に落ちていくから、俺は慌ててタオルを取り出して彼女の顔に押し付けた。当の本人は呆けた顔をして、ただ口を開けて泣いている。頬にしたたるこの滴は、この雨よりきっとずっと澄んでいる滴かなあ、なんてことを考え始めるくらいに彼女はずっと泣いていた。まばたきをするたびに落ちる滴を拭き取るタオルは彼女の涙でいっぱいいっぱいみたいだった。
「冴、大丈夫か?」
 俺は彼女の頬に手を伸ばした。
「――先輩、先輩」
 彼女が小さく俺を呼んだので手を止めて顔を覗き込んだら、彼女は目をぱっちり開けて、でも、どこも見ていなかった。涙のおかげでまばたきをしなくても目が乾かないのだろう。
「わたし、嬉しいです、でもね、でもね、まだね、死にたいんです。なんででしょうか?なんでこの死にたい気持ちはどこにもいかないんでしょうか? わたし、ずっと悪い夢を見ているみたいに死にたがりなんですよ。なんででしょうか?いま、とても、満たされているのに。死にたくてしょうがないんですよ。」
 彼女の唇ははっきりと喋る。雨音に負けないように、ぐいぐいと押し迫る声で。
「わたし、ちょっと乱暴だけど親もいたし、五体満足だし、それなりに裕福だし、なにが悪かったんでしょうか。なにをしても、だれといても、この世界からいなくなりたくなるんですよ。馬鹿げてますか?先輩、こんなわたしは気持ち悪いでしょうか?でもね、ほんとうなんですよ、ずっとずっと、呼吸をするよりもずっと一緒にいるんですよ」
 俺を呼んでいるのに、彼女はまっすぐ前を向いたまま話した。まるで神様が目の前にいるかのように。
「わたしは勉強は嫌いだけど運動は出来たし、身なりにもそれなりに気を使って普通の人間でいようとしていました。だけど、死にたくなるおかげでわたしは普通じゃいられなかったんです。そもそも、こんなに死にたがりなのは普通じゃないですものね。なんでなんでしょう。わたし、生きたくないんです」
「――じゃあ、なんで死なないの?」
 俺はこの言葉を言ったあと、とんでもないことを言ったと後悔した。このまま、「はいじゃあ、わかりました」といって彼女が死んだらどうしよう。喉元にまで緊張がやってきて、吐き気を催した。しかし彼女は、神様から目をそらして俺の顔を見た。
「……死ぬなって、わたしの大事な人はいつも言うんです」
 彼女は手を使わずに視線で俺を指差した。俺は冴が死にたいと言った時、「しんじゃだめだ」と無責任に言った事を思い出す。息を呑んで、彼女を見つめた。
「どうしよう、こんなに、こんなに大事な人なのに、駄目なんです。死にたいんです。」
 彼女からまた涙がこぼれる気がして、俺はとっさにタオルを握りしめた。今日下駄箱で会ったとき、会えない日に見かけたとき、ドアの前で話し続けて笑いあったとき、初めて出会ったとき、どの時よりも今の彼女はもろくはかなく雨の日に捨てられた子猫のようにしなびて、やっぱりこの世界とは不釣り合いだと思った。
作品名:ぼくたちに傘はない 作家名:らた