ぼくたちに傘はない
冴が新しく買ったという傘は本当に新しく購入したものらしく、傘を開くときの音が気持ちよく感じた。色は桃色と白色、女の子らしいそのサイズに二人で入るにはすこし狭く、俺は冴の方に傘をかぶせすぎて片方の肩がぐっしょり濡れてしまっていた。
あの後普通に階段を降りたら普通に冴を探していた人たちに出くわしたけれど、俺を見て怖気づいた顔をしていた。それでも一番強そうな子が「上村に用があるんですけど」と言ってきたが、「俺も上村に用があるんですけど」と言い返したら怖気づいたように黙り込んでしまっていた。もしかしたらその時の俺はさぞかし機嫌の悪い顔をしていたのだろうか。まるで主人に怒られた忠犬のようだった。冴はそのときのことがとても面白いらしく、何度も喋っては笑っていた。
そして現在、普通に帰り道を辿っているのである。「先輩」という存在は強いなあと実感した。異性の先輩など、最も恐ろしいだろう。俺も三年生の女子生徒にギロリと睨まれたら心底ビビる。こわいから。
俺は学校から家まで徒歩で十分なのだが(なんせこの高校への志望理由が“家から近いから”だから)、冴は家まで電車で三十分もかかるという。この高校にそこまでして来る理由などどこにもない、本当に平凡でどちらかといえばつまらない高校なのに、気になって彼女に理由を聞いてみたら、「離れたかった」と答えた。俺はまた、その答えに対して何も言えなかった。
駅とは反対方向に俺の家はあるのだけれど、こうして彼女を駅まで送っていくのが習慣になっていた。いつも傘はないから、行きも帰りもびしょ濡れになるから冴は送らなくていいと言うけれど、こんな雨の中彼女が一人で歩くと、ふらりと彼女が消えてしまうんじゃないかって思えてどうしても一人で帰させられなかった。
コンクリートの道路は雨のにおいでいっぱいだった。したたる水溜りを避けながら、歩幅を合わせて歩く。今日はいつもより少し強い雨。彼女の新しくした傘でも、折れそうだと思った。雨が降るとにおいが強くなるというのは本当で、俺は冴の長い髪から漂うシャンプーの香りを気づかぬうちにいつも探していた。
「相馬先輩って、変ですよね」
と、冴が冗談交じりに言った。
「なんでわたしなんかを庇うんですか」
自虐的な笑い方をしながら、冴は足元を見つめている。
「だって、追われてたし」
「あれはわたしが悪いんですよ、今回は、本当に」
「でも、なにがあったかなんて教えてくれないんでしょう?」
俺は茶化すように笑った。でも、彼女は突然ぴたりと足を止める。
「わたしね、ずっと言わなかったことがあります」
「うん? なに」
俺は無意識に胸がはずんだ。とても重々しくはぜた。
「わたしね、ずっとね、ずっとずっとね」
――死にたいんですよ
彼女のぼろぼろな声はかろうじて雨音にかき消されず俺の耳に届いた。俺はその言葉をきいて、なんだか一人で納得したような気分になった。前からずっと、そのことを知っていたみたいに。不思議なくらいに、胸の内にすとんと落ちる言葉だった。
俺は足を止める冴の顔を見た。壁が薄れる色をしていた。だんだん厚みは変わらずただ色素が薄くなって、ガラス越しに冴が現れる。死にたがりな、どうしようもない彼女が。彼女は泣きもせず、笑いもせず、白い世界で立ち尽くしている。彼女の酸素はあるのだろうか。このガラスはきっと、ダイヤモンドよりも硬く気高く冷たいものだ。手を伸ばしても、彼女との距離は変わらない。彼女の姿が見えたとして、彼女の心が見えたとして、それをどうしようもできないことくらい知っているし。
――あれ、じゃあ、なんで彼女の話を聞きたいと思ったんだ?
俺が彼女をどうにかしたいなどと強く思ってもいなかったことにも気付いた。そしてそのことが随分と重要なことだったと気づく。あれ、あれれ、俺ってそんなに冷たい人間だったっけ。じゃあ、なんで俺は彼女の手を握り走ったのだろう。無責任な感情と行動で、彼女の居場所を作って、彼女の笑顔を作った気になって、彼女が懐いたのが嬉しくて、それで、それで、それで、――――……それで?
「死にたいんですよ、わたしは」
彼女は俺の考えていることなんて余所に、うつむき言葉を繋ぎ続ける。傘に響く雨の音が彼女のパーツをひとつひとつ粉々にしているような気がした。俺はそれをどうしようというのか。拾い集めて、ボンドで固めて、彼女にあげたら、彼女は救われるとでも思っただろうか。
「だって、わたし、生まれてこのかた、生きていて良かったなんて思ったこと、ないですもん」
どくん、と胸が強く爆ぜる。こんなに近くにいるのに、こんな傘じゃ彼女を守りきれない。守ろうと思えない。守ろうなんて、思ってなんかなかったんじゃないか。
「しんじゃ、だめだよ」
俺は自分で言っていて、空っぽな言葉だと思った。もしかしたら、これが三つ目の嘘だったのかもしれないと後に思うのだ。
「みんないうんですよ、それ」
と、彼女が俺のスカスカの言葉にくいいかかる。
「だから、こんなとこまできたのに。消えると思ったのに、消えないんですよ」
彼女の口調はいつもより粗い。感情が高まって、頬が少し赤くなっている。声の抑揚も激しく、息も荒い。
「じゃあ、もう、わたしが消すしかないじゃないですか」
雨がより強くなった。だから、雨音にかき消されて最後の方がよく聞こえなかったけれど、俺は湿った空気を吸ってこう返した。
「――俺、知っているんだよ。いつか、冴が死のうとしたこと」
彼女はバッと顔をあげて、俺の顔を呆けた表情をして見た。続きの言葉を恐れる顔をする。
「手首が取れそうな位の傷があるでしょう」
そのとき、彼女がゆっくりと泣きそうな笑みを浮かべた。きっと、そのとき俺も笑っていたんだろう。そんな気がした。彼女はいつも何種類かのリストバンドを左手首にしていたけれど、今日はしていなかった。今日、知ったんだ、帰ろうと言って彼女の手を握りしめた時に。彼女の手首が取れるかと思ったけれど、それでも強く握りしめて、“帰ろう”と。
「今日は、リストバンドを忘れて、それでこの傷がバレて、“死にたいの?”って、“死ぬの?”って馬鹿にされて、殴りました。何回も、何回も、この傘で」
彼女は俺の持つ桃色の傘を指差す。それからそのまま、自分の手首に指先を向ける。
「わたしは確かに死のうとしました。やったのは、中学校の時」
中学はこの傷の所為で生きづらい場所でした。この高校より、一層。
「その頃のわたしは内気で人見知りで、誰にも何も言わず、誰にも関わらず、友達を作らずにひとりきりでいました。なぜかって? 嫌いだからですよ。なにもかもが嫌いだからですよ。だけど公立中学、規則には厳しく、絆創膏なんかじゃ入りきらないこの傷をどうにも隠しきれなかった。やがて誰かに突っ込まれるんです。“死にたいの?”って」
そして今のように標的にされるのです。