ぼくたちに傘はない
そんな風に一週間が過ぎた。
出会ってから一週間の今日は体育祭で、心配されていた空はよく晴れていた。様々な色の旗が交差する中、冴を見つけた俺は手を振った。俺とは色の違うハチマキをしている彼女も俺を見つけてくれて、微妙な苦笑いと一緒に小さく手を振り返してくれた。隣にいた俺の友達が、あのこ可愛いな、なんていうから俺は近づいちゃ駄目だよ、とだけいって釘をさしておいた。
冴は徒競争でぶっちぎりの一番をとっていた。そういえば彼女は運動神経がとても優れているんだっけ。持久力はあまりないと笑って、階段を上るのがつらいというから「年寄りか」と笑った。そういう俺は障害物競争で三番をとった。お似合いの数字だと後に冴が笑っていた。
次の日はまた雨だった。俺は放課後また屋上のドアで寝転がっていたら、階段を駆け足で上ってくる音が聞こえた。
「相馬先輩っ!」
冴はいつものトーンより少し高めに俺を呼んで、それから上履きで俺の脇腹を蹴飛ばした。
「可愛い傘買ったんですよ、一緒に帰りませんか?」
「おお、なんでそんな急に女子みたいなことを。びっくりするわ」
俺は上半身を起こしながら冴を見た。右手に新品らしい清潔感のある薄い桃色と淡い白の傘を握っている。
「先輩、帰りましょう」
冴は笑った。俺は胸の内側がざわつく。いつもと違う、彼女の笑顔が曇っていると思った。それだけで、なぜだろう。こんなにも胸が痛むのは。
「冴、なにかあったの」
冴の左手を無意識に握りしめた。彼女がどこかに消えていく、というより、どこかへ逃げてもう二度と戻ってきそうにないざわめきがあったからだ。
「――なんにもないです」
冴は早口に言った。先程までの笑顔は消え失せて、眉間にしわを寄せている。彼女の左手は冷たく、心なしかとてもとても手放したくなかった。
この空間にかつてない緊迫感が訪れた。湿った空気が余計に鼻について、雨の音がよく聞こえてきた。あの日繋いだみたいに手放せない手のひらを動かせないで、俺は座ったまま、彼女は立ったまま睨みあっていた。彼女の瞳は、見たことのない不思議な色で埋まっていた。焦燥のような、何かに追われているような濁りがある。
沈黙状態が続く中、冴がびくりと何かに反応するように動いた。
「上村ー! どこだー!」
その声にバッと彼女は手を離して、目を見張る。俺はその様子で冴の行動の意味を悟って、離された手をもう一度掴んで自分のもとに彼女を引き寄せた。彼女の名前を呼ぶその声は女の声で、複数ある。荒々しい怒鳴り声で、この階段下の階から聞こえるみたいだ。
「またなにかしたのか?」
と、茶化すように言うと緊張がほぐれた様に彼女はゆるく笑った。
「また殴ってしまいました」
その声は気の所為かいつもより震えていて、違和感を覚えた。いつもはこんな感情の揺れを露わにしない。だけど今日は違うと思った。本当に、具体的になにが違うのかと聞かれればたいそう困るのだけれど、でもほんとうにいつもの哀愁ややるせない雰囲気が感じられなくて、その冷たい左手が細かく震えていた。
「クラスのひとに会いたくないんだな?」
「――……はい。だから、早く学校から出たいです」
彼女の左手は俺の手のひらを握り返した。俺はやっぱり冴が普通じゃなく感じて、波のような不安感に襲われた。彼女の裏側が頑丈な壁付きで現れたような、鍵のないドアの前で立ち往生する彼女が目に浮かんだ。最初出会ったあの瞬間のような衝動に駆られる。彼女のわけを聞きたい。無性に。彼女にまとわりつく悲しみの理由を。
「上村―! 逃げんな!」
怒鳴り声は中々止まない。湿った空気が強く心臓を湿らされていくような気がした。冴はじっと黙りこんでうつむいている。今見つかったら、今までのいやがらせのような仕返しが待っているのだろう。終わらない意地っ張りの連鎖が止むことはない。俺は自分で思うより胸がドキドキしていた。時計の秒針が休むことなく刻むように、俺は呼吸するたびに駆られる。今までで一度も感じたことのない感情で戸惑う。冴、お前は一体俺にとってのなんなんだ。なんでこんなにも心を動かすんだ。まるで、まるでお前はこの世に生きているべきじゃないみたいな生き物だ。
「――冴、帰ろうか」
俺は立ち上がって、彼女の左手を強く握りしめた。「えっ」と、彼女の唇から小さな驚嘆の声が漏れる。
「今この階段を降りたら、あいつらに会うじゃない」
冴は顔をあげて困ったように俺をみた。
「可愛い傘、買ったんだろ」
俺は彼女の手を引っ張って階段を降りはじめた。彼女は遠慮気味な足取りで、黙って俺の後ろを付いてきた。
「先輩、先輩」
「なに?」
「見つかったら、どうするんですか」
「普通にしてればいいじゃんか。何も悪いことはしていない」
「殴りましたよ」
「俺は悪いことをしていない」
「でも、でも、じゃあ」
「なにかあっても、大丈夫だよ。俺がいるだろ」
するりとそんな使い古されたような台詞が出てきた。冴の息の呑む音が聞こえた気がした。そのとき俺は胸につかえた鉛玉がすとんと落下して、やっと彼女の表情の色についてすっきりする言葉がみつかった気がした。彼女の長いまつげに囲まれた大きな黒目は、空虚な色の瞳でも、満たされた色の瞳でもない、その色々が交差する場所で待ちぼうけをくらったような色の瞳だと強く感じるのだ。こうしてみると、とても世界と彼女が不釣り合いに見える。俺がこうして彼女の手を何度も掴んでしまうのはなぜだろう。彼女を逃がさないためか、彼女を逃がすためか。
「大丈夫だよ」と、俺は意味もなくもう一度繰り返した。