ぼくたちに傘はない
「失礼な」
俺は笑った。
「逆だよ、俺が最初から好きじゃなかっただけ。振られた理由は“愛情が感じられない”だって」
「うわあ、さいってー」
前の彼女にも言われた「最低」の言葉も、冴に言われるとなぜかズキリと胸が痛くなった。
「だって、断れないんだもん」
「モテる男のいう言葉ですよそれ」
「うるせ」
ポン、と叩くように、置くように冴の頭に触れた。湿った黒髪がきらきら水滴で輝いていた。
「そういうお前はどうなの」
「――片思い派です」
「へえ。いま好きな人いるの?」
「むかしいました。ずっとずっとすきだったひと」
「すきだった?」
「男なんてね、性欲しかないんですよ」
冴がまるで急に遠くの人になったような笑い方をした。ゆるく笑う唇に水滴が跳ねる。その言葉ひとつで、俺は彼女の恋を悟った。――なんて報われないんだろう。彼女を取り巻く環境はいつも残酷だ。ここまで神様は彼女に世界を汚くみせて、なにがしたいんだろうか。
「事が終わればすぐに音信不通ですよ。どうしてこうも、上手くいかないんでしょうね」
冴が詰まった心の蛇口を少しひねったみたいにまるで本音みたいな言葉を続けた。
「ほんと駄目です、生きていくのは」
俺は冴の顔を見れなかった。
「雨空ですねえ、青がみえません。相馬先輩の青が」
別れ際、冴は空を見上げながら零した。鼻先やまつげに雫が滴って跳ねて、冴は泣きそうな顔をした。俺は胸が痛かった。こんな世界じゃ、彼女の心に汚いものがどんどん染み込んで動けなくなってしまう。雨、止めばいいのに。きっと青空の方が、彼女は救われそうだ。そこで、自分の名前が“青”であることを思い出して自意識過剰みたいだな、と一人で苦笑いした。
「俺、これからバイトだから」
「はい。頑張ってください。バイト代で焼き肉奢ってくださいね」
冴は俺が貸したタオルで顔を拭きながら真顔で言った。
「ははは、いいね。わかった」
俺は彼女に二個目の嘘をついた。
次の日は、ちょっとだけ晴れた。いつもの階段は少しだけ明るく、冴の白さが朽ちそうに思った。
「今が人生で一番しあわせって時と、今が人生で一番さいあくって時、どちらが死にたいですか?」
放課後の下校の鐘が鳴った時、冴が聞いた。
「さいあくイコール死にたいだったら、後者だな」
「――ふうん」
彼女はちょっとだけ、期待と反した答えが返ってきたような表情をした。その意味が俺にはよくわからなくて少し思考が止まったけれど、彼女はそんな俺を不思議に思ったように首を傾げたから、その空白と表情を埋めるように俺は続きの言葉を言った。
「しあわせなら、」
彼女の顔をみる。
「そのしあわせが続くまで生きたいよ」
そのとき俺がどんな表情をしていたのか。そのとき冴がどんな理由でそんな痛ましい笑い方をしたのか。すべては、暮れてきた太陽が見せてくれなかった。