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ぼくたちに傘はない

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 それから毎日冴はここにきた。
 俺だって今まで毎日あのドアの前に通っていたわけじゃないから、俺にもそういう新しい習慣がすっかり染みついてしまった。
 冴は変な奴だった。
 とても不思議な雰囲気をもっていて、パァっと明るく笑うかと思うと、急に心が崩れ落ちそうになる笑みを浮かべる。表情が豊かなようだけど、どこか大切な感情が完全に欠落しているような、ぐるぐると黒くも白くもない感情に締め付けられているような気がした。ただ、何かに媚びるように、何かに許してほしそうに、よく笑う奴だった。
 俺たちはその屋上の前のドアの前に集っては、くだらない話をした。
「相馬先輩、相馬先輩」
「なに?」
「よんでみただけですよ」
 冴はにかっと笑う。そういう不意打ちも突然投げ込んで来るやつで、俺はとても単純に胸がどきどきした。
「先輩は、部活とか行かないんですか?」
 冴は俺が持ってきたポテトチップスをつまみながら聞いてきた。
「やめた」
 携帯電話をいじりながら、答える。
「人間関係がきつい」
「意外、上手くやっていそうなのに」
 彼女は目を丸くして唇を尖らせる。
「もともと人間社会でいきていくのに向いていないんだよ、たぶん。人間より、犬とか猫とかのほうが好き」
「わたしはどうですか」
 変な質問。
「お前は人間じゃないよ」
 変な回答。
「どういう意味ですか」
「犬とか猫とかの方が近いよね」
「じゃあ相馬先輩に好かれてますねわたしは」
「そうだねえ」
 俺は友人からきたメールを返しながら相槌を打った。
「相馬先輩って、適当ですよね」
「え、そう? 結構まじめだぜ」
「どこがですか?」
「え、えーっと……あ、メールはちゃんと返す」
「普通ですねー」
「普通だよ」
「普通といえば、今日の昼に雨なのに普通に校庭でバスケしてましたよね」
「え? だってバスケたのしーじゃん」
「楽しいですかねえ」
「楽しいよー。球技は好きだよ俺」
「わたしは運動嫌いですけどね」
「冴は勉強が出来そうだよ」
「勉強もあまり出来ませんけどね」
「じゃあ、なにが出来るの?」
「……ここに来ることは出来ますけど」
「じゃあ、それだけでいいじゃん」
「なんですか、それ」
 何が本当で何が冗談だかわからない。そんな会話をよくした。内容の密度も、言葉の長さも関係ない。ただ、今日も雨が降って、今日もこの薄暗い居場所がとても心地よかった。それだけが、とても好きだった。
「先輩、なんでここにいるんですか?」
「うーん、ひとりになれるから。結構ひとりがすき」
「うそ、ひとりがすきってキャラに見えない」
「人は見かけに寄らないんですよ」
「うそくさい」
 冴が笑った。
「でも、わたしをいきなりここに連れてくるくらいには変人ですよね」
「変人って言うな」
 たしかに、変人だったろうけれど。俺は胸の隅っこで思う。
「でもあのときわたし、酷い状態でしたよね」
 数日前のことなのに、懐かしそうな顔をする。あの日腫れていた頬はすっかり元通りになっていた。
「そりゃあ、びっくりだよね。冴みたいな綺麗なのがあんなボロボロなら」
 冴は「綺麗」という言葉にゆっくり赤面した。そんな様子が可笑しくて、俺はたまにこういう小っ恥ずかしいことを言った。
「だ、だってあの日は、ちょっと……」
 冴がきまりの悪そうな顔をした。
「ちょっと?」
「ちょっと、ブチ切れちゃって」
 笑っていえば和んでしまいそうな言葉とは裏腹に、しゅんと落ち込んだような顔をする冴。
「なにがあったの?」
 俺は少し迷ったけど、聞きたいと思った。
「……わたし、クラスで嫌われているんですよ。特になにをしたってわけじゃなくて、クラスの一番目立つ子に対して冷たい態度っていうか、まあいつもどおりに接した時からたちまちわたしの周囲からひとがいなくなって。まあ、そんないる方がおかしいんですけど」
 冴はうつむきながら話す。俺は黙って話を聞いていた。たしかに冴は細くて色白で綺麗だけど、社交性はあまりなさそうに見えた。信用出来るひとにしか笑わないし、話したりもしなさそうである。俺のクラスに冴のような人がいれば、まず第一に怖くて近寄らないだろう。そんなオーラを彼女は放っている。ただ、話してみればとても可愛く普通の女子に限りなく近いというのに、勿体ない気がする。
「そんで、今まで嫌がらせが続いていました。まあよくある感じのばかりで。大声で悪口をいわれたり、体育のときにはボールを当てられたり、机の上は油性マジックで暴言吐かれていたり、机の中にゴミはつまっているし、椅子に接着剤とか、弁当に虫とか、あと、よくモノを隠されるか、画鋲ですね」
 冴は淡々と指を折り数えながら小学生みたいな嫌がらせの数々を思い出していた。その姿に俺はこう思った。
「そんで、やり返してきたんだ?」
「はい」
 冴はにやりとした。やられたらやり返すのが主義ですから、そういう冴はとても崩れそうにたくましくみえる。
「ボールはちゃんと当て返しましたし、机は曲げて先生に替えてもらったし、接着剤椅子は持ち上げて相手の顔に押しつけました。ちゃんとくっついたんですよ。あと、えっと、虫も返しました。画鋲とかも、弁当に」
 とても楽しそうに冴は喋った。とてもすっきりするのだろうな。けれど、彼女はひとりだ。
「トイレで髪をライターで燃やされかけた時は、ライターを奪って奴らを燃やしてやりました。トイレだったんでまあ消火されちゃって死にはしなかったんですけど」
 激しいいじめのある一年クラスがあるとは聞いていたけれど、教師の知らない度が過ぎた嫌がらせは沢山あるものだと実感した。というか、もう殺人未遂に近いというのに、俺はとても平凡に日々を送っていたんだなあと思ったら、彼女が遠ざかっていく気がした。――世界が違うと思った。
「でもあの日はブチ切れちゃって、つい手が出てしまって」
 冴は一番知りたい「あの日に殴った理由」を濁したように感じた。
「というか、まあ、こんな話はやめましょう」
 なんていって、胸の前で両手を叩く。パン、という渇いた音が響いた。これより先は立ち入り禁止です。まるでこの階段下にある看板にある文字が彼女の心の表面に書いてあるみたいだった。

 次の日も、また雨が降った。冴は傘を盗まれたといって嘆いていた。俺もその日は傘を持っていなかったから、雨脚が弱まったのを見計らって彼女を駅まで送った。ずぶ濡れになりながら、彼女は楽しそうだった。俺は少し胸がちくちくと痛んだ。このままこの雨の中に彼女は消えていくんじゃないかって、馬鹿みたいにそんなことを思った。
 雨の中を散歩するみたいに二人で並んで歩いていたとき、冴はこんなことを聞いてきた。
「先輩って、彼女とかいないんですか?」
 とても有り触れた話題をこんな雨の中傘もささずに歩くというどことなく新鮮な時に聞いてくるのが冴らしいと思った。
「この前別れたよ」
 ほんとうに、この前。一カ月くらい前のことだっただろうか。目の大きい、優柔不断な女の子だった。
「振られたんですか?」
 冴が冗談っぽく微笑みながら言った。
「そうだねえ」
 その答えが意外だったように、冴は目を丸くした。
「うそ、先輩ってひとを好きになるの?」
作品名:ぼくたちに傘はない 作家名:らた