ぼくたちに傘はない
彼女はまた俺の瞳をみた。涙目の瞳は、とても愛らしく、そして崩れ落ちそうにみえた。
「ウエムラ、です」
「ウエムラ、なに?」
「ウエムラ、サエです」
「ウエムラサエ、ね。漢字は?」
なんでそこまで気になるんですか?、と彼女はくすくす笑った。
「上、に」
彼女は人差し指で天井を指さす。
「村、で」
その手をそのまま床に置いた。
「冴えるで、冴です」
心なしか彼女、上村冴はにっこりした気がした。
「冴、かっけえな」
俺はその名前を聞いて心に鉛が落下したような衝撃を受けた。お似合い、というより。重荷。直観的に、噛み合わないものを感じた。しかしそれを顔に出すわけにもいかず、苦し紛れにこう言う。
「冴って呼んでいい?」
「いやですよ」
恥ずかしいからか、彼女はぶわっと顔を赤くして即答した。
「名前で呼ばれるの、慣れないです」
そうか、と俺は笑う。
「俺は相馬。相馬青、ね」
「青は、青空の青?」
「そう。いいだろ」
「いいですね」
素直に肯定したのに少し驚いた。てっきり「なにがいいんですか」と冗談混じりの反抗的な返答がかえってくると思ったのに。ボケたつもりが、そのまま受け入れられてしまった。
冴はそのとき、叶わぬ願いを思い返すような、夢心地を夢心地で置いてきたみたいな表情をした。しかしその表情はつかの間に消え、俺の目を見てにっこり笑った。
「じゃあ、相馬先輩ってよびます。だから、名字で呼んでくださいね、わたしも」
「わかった、冴」
俺は微笑みかけた。冴はやっぱり苦々しい顔をした。
「俺、いつもここにいるから。またきなよ」
そう言ったら、彼女はちょっと驚いた顔をして、ちょっと嬉しい顔をして、短く頷いた。それから、彼女、上村冴は立ち上がり階段を下っていった。
少し心配で、俺は階段の手すりから階段を一段一段下っていく冴を見に行った。彼女は片手で涙を拭いながら、足を運んでいた。