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ぼくたちに傘はない

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 結論はすぐに出た。ひょっとしてきっとずっと、もうわかっていたことだったのだろうか。俺は壁の向こうの彼女に初めて自分から歩み寄った。するとどうだろう、彼女と俺を遮る壁の厚みも強度も何一つ変わらない。ただ、彼女は少しだけ笑った気がした。それだけで解ける魔法もかかる魔法も、この世界にはいっぱいあるのだ。こうやって僕たちが飲み込まれていく世界には、いくらでも。秩序や組織なんて関係ないと思うんだ。幾千の生命の中のひとつだけの僕が生きて死ぬ世界が、君にとっても生きてしまってやっと死ねる世界なだけだ。僕が神様やサンタクロースを信じなくなったのと同じよううに、君の目も耳も心も疲れ過ぎてしまったんだ。
 もう奇跡が起こらないのなら、もう起こらなくてもいいのかもしれない。

「――明日死ぬのなら、今日は生きてほしいよ」

 俺はそう言ってから、手を伸ばして彼女の骨ばった身体をぎゅっと抱きしめた。彼女の唇から小さな嗚咽が漏れる。彼女の身体は想像していたよりも温かかった。
冴のために俺はいくつでも嘘をつこう。例えいま、彼女を一生離したくない衝動に駆られていても。俺はたくさん嘘をつこう。彼女が救われる言葉を言おう。選んで選んで選び抜いた言葉の中からこの喉を通して導き出そう。いつか君をさらう風が吹いても手放したくない手のひらだったとしても、君がその手首から切り落としてしまいたいほどの重い世界だったならば、俺は何より鋭利なナイフを手渡すから。俺は心の底から一生君と一緒にいたいと思うけれど、君にとってそれが重荷ならばそれはそれでいいよ。なによりも、彼女を解放してあげたかった。絶対、最初から知っていたんだ。彼女とこの世界はあまりにも不釣り合いすぎるって。あの時の衝動は、きっと、そんな衝撃だったんだ。
「相馬先輩……」
「冴って名前、似合ってるね。でも、それは冴が似合わそうとしたからなんだね。大切な大切な両親からの最初で最後のプレゼントだったから」
「先輩……」
 冴の声がくぐもって聞こえた。何度もみた彼女の泣き顔を、今だけは見たくはなかった。雨音のように虚しさが降る。ほんとうは胸の隅っこで、彼女が生きたがらないかなあなんて思っていた。一緒に、一生、一緒に。永遠に。夢のような、夢の、覚めない夢で。
 無意識に彼女の手のひらを握りしめていた。それに気付いた彼女が顔をあげて俺を見るから、俺は胸が潰れる音がして、唇を重ねるだけのキスをした。どうしても顔を見たくはなかった。胸がざわついて、焦燥と嫌な落ち着きが拭っても拭っても消えないから。彼女は驚いた顔をして俺の目ばかりを見る。やめてほしいと思った。死ぬほど思った。そう思いすぎて死ぬかと思った。胸が痛い。君が恋しくて。ずっと思っていた。この気持ちに名前はあるのか?それとも俺がつけるものなのか? どんなさみしい名前をするんだろう。
「先輩……。ごめんなさい、生きろって言ってくれたのに」
 冴のしなやかな声が聞こえた。ひたすらにさらさらな君の髪のような雨の音みたいだ。
「冴、もう何も言わなくていいんだよ。もう、なにも」
 俺の胸から離れた冴は、俺が握りしめた手をぎゅと握り返してくれた。
「誰にも許されなくていい。誰にも償わなくていい。すべては君のためにあっただけだから」
 自分のことは棚に上げて、俺は目をつむって彼女の心臓の音を探す。静かで聡明そうな狂わしい音。ずっと探していた音だ。ずっと聞いていた音だ。――その音は雨音によく似ていた。
「でも、――ごめんね」
 俺はどんな意味を込めてこの言葉を言ったのか自分でもよくわからない。でも、言うべきなんだと思った。
 彼女はほんとうに何も言わなかった。だから俺は彼女の手を離した。彼女が切り落とそうとした左手を手放した。まるで、あの日掴んだ手のひらを白紙に返すように。俺が引き留めた冴の命を手放すように。
冴が薄く笑った。俺は背筋がぞくぞくした。ああ、彼女、明日は生きていないかもしれない。そう思うと、冴がこの世で一番薄っぺらいモノに見えた。それからまるでなにもなかったことになるように、冴は泣いた。
――やっと、やっとだ。やっとわたしは消えていいの。
そういう言葉が背中から滲み出るような泣き方だった。そのまま雨のような涙に全部流して、僕等が交わし合った時間はいつも雨だったから。彼女がこのまま溶けていくことを何度も引き留めてしまったのは俺の方なのに、きっと俺はまだ手を伸ばしたい。
何度でも、君が死のうと思うたびに。でもきっとそれは君にとって救われないことだ。じゃあ、もう、俺も救われなくていいと思えるんだ。彼女は死ぬ。それが幸せの形だというのなら、それを見届けよう。爆発しそうになる胸を抑えて、俺は彼女がいなくなることを許した。




作品名:ぼくたちに傘はない 作家名:らた