ぼくたちに傘はない
「相馬、すげえな、一年」
隣の席の友達が驚嘆と興味で爛爛とする瞳を輝かせて俺に耳打ちをしてきた。
「睡眠薬大量摂取とリストカットと首吊りか。こいつ、確実に死のうとしたんだな」
今朝からずっと、クラスや学校全体の騒々しさ、ニュースや新聞の記事で嫌でも耳に彼女の情報が入ってくる。前の席の眼鏡の友達が後ろを向いて苦々しい顔で言う。
「首吊りって、死に方が汚いらしいぜ。写真を見る限りこの子、超かわいいのにな。えげつねー」
「しかし自殺だなんてこんな身近にあるもんなんだな。ちょっと怖いよ」
こわい?なにがだ。俺は胸がどきどきしている。今すぐにでも冴に言ってやりたい。お前をイジメていた奴等は相当ビビっていたぞって。最高の復讐だなって。
「遺書も超こわくね? “お前らが死ねといったから死んでやった。この人殺し。ざまあみろ” だってよ」
「でも見せつけてやるのが目的なら、本人達の目の前で自害とかしないか? 教室とかさ」
「自宅でっていうのが、ちょっと度胸が足りないかもな」
それを聞いて、冴は自宅で死んで、きっとそれを母親にみせしめたかったんだろうなあと思った。よくやるなあ、と感心した。冴、おまえってほんとうに最高だな。ここまでやらないよ、普通。俺は心の中でとても笑顔だった。無意識に彼女に語りかけ、笑顔で返答が返ってくる気がした。ダイヤモンドの壁の向こうにもう人影はないというのに。
俺は放課後、無意識に足が屋上のドアの前へと向かった。「立ち入り禁止」の看板をまたいで一段一段、滅多に掃除されない埃かぶった階段を踏みしめる。彼女のにおいはもうどこにも残っていない。それでも、壁に、床に、天井に、彼女を探してしまう。
そういえば俺は彼女に、「死んだら泣くよ」と言っていたのに、俺は感情が胸に押し寄せることは無かった。むしろ彼女が死んだと聞いて、心の中が大晦日より激しい大掃除を迎えた。すっからかんだ、きっと少し言葉を呟くだけで遠くまで反響してきこえる。小さな痛みが募って大きなものになるよりはるかに長い時間をかけて。
最後の一段を上り終えて、顔をあげた。灰色の四角い箱の中で、渇いた音が聞こえるようだった。息を吸うと、もう湿った雨の香りはせず、埃かぶったしなびた空気の味を舌で覚えた。吸った息を吐くとき、壁に書かれた文字に目が止まった。油性マジックで書かれたような文章。丸い文字で、小さく書かれていて、近づかないと読み上げられなかったけれど、すぐに内容を読んで冴が書いたものだとわかった。
「もっと早く会いたかった。わたしはもう手遅れだった。ありがとうございました。許してくれて」
短く、簡潔に、でも、伝えなくちゃいけないことは、絶対に。彼女らしい飾り気のない言葉の選び方にすこし笑えて、それから蛇口をひねったように、大雨が降ったように心の中が満ちていった。それはすぐに許容量を超えてまた胸をズキズキと痛め出す。感情が襲い掛かってきて、息が出来なくなって、床にへたり込んだ。こんなのは不意打ちだ。冴、揺れてしまうよ、そんなことを言われたら。
ねえ、結局、ほんとうはなんだったんだ。俺はなぜ彼女の命を引き留めて、突き放したのだろう。この行為に結局なんの意味があったんだ。あの衝動の理由は一体何だったんだ。
はあ、とため息をついて、床に目をやった。驚くべきことに理由はそこにあった。
同じ油性マジックで書かれていたけれど、こちらは埃が積もっていて結構前に書かれたものみたく、いつも俺が座るドアの前の反対側に小さく小さく書かれていた。
「好きです、恋愛的な意味で」
その言葉の隣に、ありがちな中学生みたいな落書きの相合傘。俺と彼女の刻まれた名前。
あの日みたいな相合傘だ。俺の濡れる肩と、君の滴る髪の毛みたいなせつなさか。
そこで俺は息を呑むのだ。鈍感な俺はやっと気づくのだ。
彼女を引き留めたのも、彼女と笑ったのも、彼女を泣かせたのも、彼女の弱さを知ったのも、彼女の死を許したことも、すべては、――――彼女に恋をしたからなのだと。
それだけだったのだ、それっぽっちのことだったんだ、初めて会ったあの日の衝動はきっと一目惚れ。ああ、なんてことだ。もっと早く気付ければ。そうしたら、彼女に思いを伝えて、ああ、彼女が笑ったかもしれない。俺の頭の中にはとどまることなく彼女の笑顔が写真のように次々と浮かんだ。それから、泣き顔も、不機嫌な顔も、傷ついた顔も、ぜんぶぜんぶくっきり覚えている。忘れることなんかない。冴は大事なひとだった。一カ月、それっぽっちの期間は俺がこれから過ごす長い人生でちっぽけなものかもしれない。でも、そんなこと言わないでよ。俺は彼女が好きだったんだ。そして彼女も俺を好いていたんだ。それだけで報われる恋だったんだ。
そうして自分に嘘をつかなきゃだめなんだ。冴、ほんとはずっと一緒にいたかったよ。嬉しいことも悲しいことも一緒に感じて、一緒に季節を通り過ぎて、手は離さないまま、いつしか家庭なんかもって、しあわせに、なんて、思うんだ。彼女の痛みの欠片も理解出来ないけど、それでも、君が生きづらいこの世界がいつか、いつでもいいから綺麗なものに映りますように。ふたりで作っていけますように。君が笑いますように。嬉しくて嬉しくて仕方のないしあわせが訪れますように。途切れることない呼吸を感じていたかった。もう二度と彼女がひとりぼっちだと泣かないように、抱きしめていたかった。
それだけの思いで、ここまできた彼女も俺もいる。言葉のナイフを突き刺し合いながら理解し合えた僕等がいる。傘は無いんだ。君の言葉を塞ぐ言葉もなく、痛いと感じて、だから彼女を傷つけて、それで、ありがとうって。俺は彼女に一体なにをしてやれたのだろう。無責任に守ろうと思った。嘘をついた。雨が降った。潤ったものは、なにもなかったけれど。
そうか、俺は彼女に恋をしていたんだ。だからこんなにも愛おしくて、君がいないと、苦しい。
胸に寂しさが刺さった。止まらない思いが俺を潰そうとしてくる。恋情に傘は無い。まるで土砂降りだ。アイシテルの雨が降る。誰もいないダイヤモンドの向こう側に。
彼女と初めてあった日みたいに、今度は俺の右頬に雫が伝った。
それから、僕等の空にもう二度と雨は降らなかった。それが愛おしいことだったのか、悔やまれることだったのかよくわからなくなるくらいに、それはもう青青しい空で俺は少し気味が悪かった。俺はこの日を境に生涯この屋上のドアの前に足を踏み入れることもなく、ただ、君の唇の感触だけが強く残って仕方がなかった。
君の呼吸のような雨音は、もう二度と聞こえない。
END.