小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ぼくたちに傘はない

INDEX|12ページ/14ページ|

次のページ前のページ
 




 冴が死んだのは、それから三日後、六月の最後の日のことだった。
 この日はよく晴れて、俺はいつものように遅刻ギリギリに登校した。教室に入ると、彼女の話してどこも持ち切りで、俺もクラスメイトから冴の話を聞いた。「一年の女子がイジメで自殺した」この話題は朝のHRでも取り上げられて、本来は全校集会を開くべきなのだが、授業等の都合で一年だけが学年集会という形で行われるそうだ。冴にいやがらせをしていた彼女等はどんな顔をするのだろう。人を殺した、とう事実が一生付きまとうのだ。
――しかしそれは勘違いで、彼女はそんなことで死にはしない。彼女を殺したのは、間違いなく俺だから。

彼女と最後に会ったのは、昨日の放課後だ。俺は雨のにおいを嗅ぎながらあの屋上のドアの前にいた。永遠の鍵のかかったドアに寄り掛かりながら目をつむっていた。今日は来るかな、まだ雨は降っているから、来るかな。来たら、なんの話をしよう。なんにも話さなくて良いのかな。この雨音を一緒に聞いていれるだけで、いいかな。そんな思いに揺られながら。
「相馬先輩」
突然現れた空気に溶け込んだ透き通る声。足音がなかったから、彼女がそこにいたのにとても驚いた。
「冴……?」
俺は彼女の身なりにとても驚いた。彼女の麗しい顔は赤くはれ上がっていて、所々出血している。艶のある髪は掴まれ、むしられた様にボサボサになっていて、制服は千切れ黒く汚れていて、膝や腕にも怪我をしていた。極めつけは、彼女から滴る水だった。虚ろな瞳は俺を捉えているのかさえよくわからなかった。
「むかつくって言われました」
 誰に、とは聞かなかった。わかっていることだ。
「言われて、携帯を折られました」
 冴が両手に持っていたのは、真っ二つになった哀れな彼女の桃色の携帯だった。
「うざいって言われました。言われながら、机を投げつけられました。どこの国のゴリラだよって言ったら、椅子が顔に当たりました」
 彼女は驚くほど淡々と饒舌に喋る。俺は胸がどきどきしていた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。彼女がまたこんなにもぼろぼろになるなんて。これ以上に壁の向こうで死んで行くなんて。嫌だ。許せない。
「調子に乗るなって言われました。言われて、トイレに引きずり込まれました。モップで殴られると、意外に痛かったです。殴られるより、蹴られた方が意外と痛いです。でも、踏まれるのがもっと痛いです」
 彼女はまるで小学生が作文を読むかのように、一定のリズムで機械のように喋った。俺は胸がはち切れそうな思いでいた。
「死ねっていわれました。言われて、思い切り水をかけられました」
 彼女の白く細い太ももを隠すスカートの端から一滴の水が滴り落ちた。この薄暗い埃だらけの床に救われない滴が落ちた。俺が何に対して目をつむっていたことがするりと姿を見せず横切った。
「ねえ先輩、、初めて会った日を覚えていますか? わたしはね、あの日なんで彼女らを殴ったかっていうと、お母さんに殴られた腕の痣を馬鹿にされたからなんですよ。」
 俺は息が出来なくなるくらい、緊張していた。彼女から目をそらせない。心臓の音が聞こえる。この音は何の音だろう。ぽつり、ぽつり、雨が降る音によく似ていて、渇いた音だ。
「お父さんは川に落ちて死んだんですって。お母さんが目を真っ赤にしてわたしの首を締めたんですよ。踏まれて折れた腕の痣は消えないんですよ。まるでお父さんの呪いみたいに」
 この音はなんだろう。ぺたり、ぺたり、足音が近づく音によく似ている。
「馬鹿にしないでほしかった。誰もわたしを愛さなかったけれど、でもそれでもわたしに残すものがあってくれるならそれはそれで嬉しいと思ってしまったから。子を愛さない親なんていないと妄信していたから。名前があるだけで幸せだと思っていたから」
 音の主は冴だった。壁の向こうの彼女はずっと項垂れて雨に打たれていたはずなのに、ゆらゆら覚束ない足取りでダイヤモンドの壁に近づいてくる。すごく、白い世界で。
「お母さんが死ねばいいと毎日呪文のように唱えます。わたしを囲う人々はいつだってわたしの存在が疎ましいらしいです。なのに先輩はいつだってわたしを甘やかしてくれます。それがとても怖かった。吐き気がするくらいに」
 壁の向こうの彼女と目があった。こんなに近くにいるのに、届かない距離で彼女は泣いている。俺がどうしようもない場所で雨に打たれている。もどかしい、くるしい、抱きしめたい、目まぐるしい数の感情が喉もとで暴れる。駄目だ、駄目だよ、そんな顔で泣いてしまうのは。そんな、神様に懺悔を捧げるような顔で届かない場所にいるのは。
「でもね、これから一秒一瞬たりとも離れず守ってくれないなら、わたしはきっと死んだ方が楽なんです。先輩が生きろというから生きるなんて、図々しいです。あのね、ずっと考えていたんですよ。やっと、わかったんです」
 胸がどきどきする。そうか、このどきどきは悪い予感のどきどきだ。俺の絶望の始まりか、彼女の希望の終わりか、どちらにせよ、きっとそれは決められたことなのだろうか。彼女の張り詰めた糸がぶつりと千切れる音がする。俺はきっとどんな接着剤をつかっても、その糸は繋げない。

――聞きたくない音がする。そんな予感がした。

「ねえ、わたしきっとずっとね、“生きろ”じゃなくて“死んでもいいよ”が欲しいんですよ」
 彼女は笑った。とても満たされた顔で笑った。

「愛してくれる愛した人から許しが欲しかったんですよ」
 彼女はまだ笑った。もう二度と自分に太陽は上らないとして散る覚悟をした顔で笑った。
「そうすればね、きっとわたし、苦しくなく死んじゃえると思って――」
 俺は無意識に立ち上がって彼女の口を片手で塞いでいた。彼女はハッと我に返ったように目をパチクリさせて俺を見上げた。壁の向こうの彼女はきっと命が消えない限り泣き続けるのだろう。そうやって俺の胸を痛め続けるのだろう。俺が彼女のそばにいる理由を問い続けるのだろう。彼女がこうして笑うように。
「――いつ、死ぬんだ?」
 俺が問うと、彼女は「え?」という疑問と驚きが混じった小さな声を漏らし、それからすぐに悟ったようにすっと顔色を変えた。一呼吸置いて、真っ直ぐに俺を見る。彼女の真っ直ぐは、俺の真っ直ぐより、ずっと直線の、世界と宇宙をぶった切る様な真っ直ぐの瞳だった。
「今日の夜に」
「そうか」と、俺は短く答えた。すました顔をしているつもりであっても、動悸がおさまらなかった。彼女を引き留めるなら今しかない。今日しかない。明日はない。――さあ、どうする。
 目を閉じて、思考を止めた。彼女がどう思うか。周りがどう思うか。神様がどう思うか。そうじゃなくて、自分自身が、彼女の死について、どう思うか。
作品名:ぼくたちに傘はない 作家名:らた