「お話(仮)」
血のついた手の平。よく見ると、図形状の刺青の真ん中で、小さな蚊が一匹つぶれて死んでいる。
「こ、こんな所に……吸血蚊?」
「ひょっとして、ぼくらを助けてくれたの? おじさん、誰?」
すると、男は暗がりの中でフードを外し、そっとオリバーの頭を撫でて言った。
「……ただの旅芸人ですよ」
○
一日前。
真夜中のエンデュミオン城。
玉座の間でグレーシャが目を覚ますと、足元に見知らぬ男が立っていた。
(……)
起き上がろうにも、呪いを浴びた手足は完全に石化し、身動きひとつ取ることが出来ない。
男はそんなグレーシャをしばらく見下ろしていたが、ふいにその場に屈み込むと、粗布を纏った顔を彼女の耳元に寄せて低い声で囁いた。
(お譲さん。ひとつ、届け物を頼まれてくれませんか?)
そう言って男が差し出したものは――封筒と、小さな銀色の石。
(そいつは……!)
その石には見覚えがあった。
(具現の石、『SILVER・EYE』。兵士殿のご厚意でお借りしました。そこであなたに提案です。もし私のお願いを聞いていただけるのでしたら、お礼にあなたの肉体を石の内部に眠らせ、自由に動く仮初めの体を差し上げましょう)
まるで少年のように微笑む男に疑いの眼差しを向け、グレーシャはひとつ溜息をこぼした。
(悪魔と契約する気はないよ。あんた、何者だい?)
その問いに、男は少しの間を置いてこう答えた。
(天使でも悪魔でもありません。私は、ただの…………)
「あの胡散臭い旅芸人。せっかくなら、パワーアップのおまけつきで蘇らしてほしかったね」
ひしめき合うヴァンパイア達を横目に、グレーシャは破れかけた羽扇子で額の汗を拭った。
毒牙を以てしても多勢に無勢。彼女は徐々に押され始めていた。
「早くしてくれないと、こっちはそんなにもたないよ」
仮初めの体であるため、この場でやられても自分が死ぬことはないのだろう。
だが、出来ることならば……。
一人そんなことを考えていた彼女めがけて、再び敵の群衆が襲い掛かる。
「しょうがないね。最後まで、このグレーシャ様が相手してやるよ」
使えなくなった武器を捨て、テーブルを盾代わりに戦闘の構えを取るグレーシャ。
「え?」
次の瞬間、翻るテーブルクロスの先で、ヴァンパイア達が一斉に動きを止めた。
「催眠が効くなら、初めからそうすればいいじゃない」
「だって、疲れるのは好きじゃないし……それに、この人数だとさすがに三分が限度かな」
立ち尽くすグレーシャの後方から、そんな会話が聞こえた。
見ると、開け放たれた正面扉の前には、ルビアとヨウ。そして――。
「三分あれば充分だ」
別方向から現れるなり、峰打ちの構えで自慢の刀を翻すフウマの姿があった。
「あらフウマ、あなたの“仕事”はいいの?」
ルビアの言葉に、フウマは黙って目を閉じた。
そんな彼の脳裏を、先ほど倉庫で交わしたコウミとのやり取りが巡る。
(あなたは、誰ですか?)
長い沈黙の後、フウマは今にも溢れ出しそうな感情を押し殺して答えた。
(……フウマだ。『牙』戦士の、フウマだ)
(そうですか。わたしはコウミです)
懐かしい笑顔。かつて泣き虫だった少女は、凛とした口調でこう続けた。
(ゴルゴンゾーラ家にお仕えする、家庭教師のコウミです。だから、わたしは行きます!)
(家族の仇だとしてもか!?)
部屋を出て行こうとしたコウミの背にフウマが問うた。
すると、コウミはその場で立ち止まり、振り返らずに小さく首を縦に振った。
(もちろん家族は大切です。思い出せなくたって、優しい家族がいたことを忘れた日はありません)
(……コウミ)
(でも今、わたしにとって坊ちゃんや奥様、他のお屋敷の皆さんも同じように大切で、何だか自分の居場所というか……上手く言えませんが、もうひとつの新しい家族みたいなものなんです)
その頬を、ひとすじの熱い涙が伝った。
(わたしは、もう大丈夫。だからフウマさんは、フウマさんの居るべき場所へ行ってください)
○
ボイラー室は蒸し暑く、不気味に静まり返っていた。
うつ伏せで床に転がったクリスを蹴飛ばし、セトは後方からシヴァの背に腕を回した。