「お話(仮)」
「シヴァちゃん! 目を覚まして!」
クリスが叫ぶ。しかし、その声はもはや彼女に届いていなかった。
直後、シヴァはナイフを振り翳し、クリスめがけて飛び掛かる。
「ヒヒヒ、使うなら使ってイイョ……。蒼炎の力をねェ」
二人を尻目に、部屋の隅からセトが囁く。
「さっきと反対ね。薬はないし、どうしたら……?」
素早いシヴァの動きをかわし続けるうちに、クリスの顔に疲労の色がにじむ。
動き回ったせいで、先程ナイフの刺さった傷口が開き、汗に混じって血が滴り始めた。
「……」
ほんの一瞬、クリスが動きを止めた。
その隙を狙って間合いに潜り込むや否や、シヴァは大きく牙をむき、そして――。
「…………ジ・エンド」
勝負あった。
首を噛まれたクリスの全身から力が抜け、そのまま彼は前のめりに床へ倒れ込んだ。
○
「ねぇ、ルビアさん」
「何?」
ロビーに戻ってきたヨウがおもむろに言った。
「あやしい人は、本当に一人なのかな?」
「ちょっと! まさか、他にも“紅い獣”の仲間がいるって言うの?」
「分からない。でも、何だか……おかしいな。さっきからずっと、感じる」
そう言って、ヨウは吹き抜けのガラス天井から満月を仰いだ。
月明かりの下、屋上デッキを移動する小さな影。
「大変だ! 早くみんなを助けなきゃ!」
オリバーだ。彼は大人達のパーティーに退屈し、会場の外にいたおかげで難を逃れていた。
今いる場所は、メイン会場のちょうど真上にあたる。
少しでも内部の状況を探るべく、少年はデッキに座り込み、ぴたりと床に耳をつけた。
「聞こえる」
微かな響き。ヴァンパイアと化した者達の唸り声か、それとも単なる夜風の音か。
そしてもうひとつ――。それとは異質な物音が、床を伝わってオリバーの耳に届いた。
「足音?」
ゆっくり視線を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。
全身を分厚い粗布で覆っていて顔は定かではないが、幼いオリバーにも分かることがあった。
「……おじさん、こわい人だよね」
男の全身から立ちのぼる得体の知れないオーラ。
それは青白く揺らめき、まるで鬼火のようにも見えた。
身構えるオリバーの前に膝をつき、男は黙って片手を少年の首元に伸ばした。
「っ」
その時だった。
突如、一本の矢が闇を裂き、後方から男の脇をかすめて壁に刺さった。
「コウミ姉ちゃん!!」
少し離れた船尾よりのデッキ。そこには、月下颯爽と弓を構えて立つコウミの姿があった。
すかさずその場を離れてコウミに駆け寄るオリバー。
そんなオリバーを、コウミは両手で力いっぱい抱きしめた。
「坊ちゃああぁん! ご無事で何よりですうぅ!!」
「いたいよ。もう、力いれすぎ」
その後、二人は壁際の男に向き直った。
「オリバー坊ちゃんに手出しする悪人は、このわたしが許しません!」
そう言ってコウミが放った矢が、今度は男の頬をかすめた。
風圧でフードの位置がずれ、下からのぞく褐色の肌。
「?」
二人の視界から男の姿が消えた。
「コウミ姉ちゃん! うしろ!」
オリバーが声を上げ、コウミが振り返るのとほぼ同時に、闇の中から伸びた男の腕が彼女の武器を素早く掴み、矢をつがえようとしたその動きを封じた。
速い。直後、男のもう片方の手がオリバーに迫る。
「坊ちゃん!!」
コウミは弓を投げ捨てると、両者の間に体を滑り込ませ、オリバーを庇う姿勢でうずくまった。
――すると。
「……身を捨てて守るとは、これは驚いた」
コウミの頭上で男の声が響いた。
「なるほど。噂通りの、良い家庭教師さんですね」
「え?」
落ち着いた低い声。
驚いて顔を上げたコウミの鼻先で、男はそっと握りこぶしをほどいた。