「お話(仮)」
直後、男はその手を放し、弾みでビアンカの小さな体が地面に転がる。
「ハ――ッハハハ!! 面白ェ。それなら『紅真珠』は後回しにしてやらァ! 嬢ちゃん、俺はカムイだ。ひとつ言っておくが、俺は金持ちと嘘つきが大嫌ェだ!」
その目は笑っていたが、ビアンカは恐怖に震えた。
実際の所、彼女はアンバーの力量すら把握してはいないのだが、今は信じるしかなかった。
「わ、私はビアンカ・ゴルゴンゾーラ。気易く呼ばないでちょうだい」
敵陣に一人。それでも自分は名門ゴルゴンゾーラ家の娘。弱みを見せる訳にはいかないと、彼女は強靭を装った。
「おカシラ!」
そこへ一人の少年が息を切らせて現れ、大きな身振りで何かをカムイに伝えた。
「何ィ? 妙な輩? コウモリの刺青?」
話を一通り聞き終えるや否や、伸びたカムイの腕が少年の喉元に掴みかかる。
「オイ、てめェら、一体どこに目つけてやがる!? とっとと探せ! 探せェェ!!」
それは野獣の遠吠えの如く辺りを駆け、幾度も岩間にこだました。
「!」
崩れ落ちた岩盤から、スキュラは間一髪で逃れた。
背後の道は落石で完全に塞がれている。戻るには新しい経路を探すしかなさそうだ。
「まぁ良いわ。小娘の居所さえ分かれば、帰路の見当はつく」
余裕の笑みを口元にのぞかせ、彼女はそのまま洞窟の奥へと踏み込んでいった。
○
燃え盛る燭台のそばに腰掛けたまま、ノアは静かに腕を組んだ。
足元には、小さな焦げ跡。そこにあった“残骸”は既に片付けられたようだ。
「久しぶり」
一言そう呟き、彼は椅子から少し離れた暗がりを見詰めた。
「ヒヒヒ……俺を呼びつけるなんて珍しいねェ、ノア様。同じ幹部のクロウやキャシーと違って、キミ、俺のことスゴク嫌ってたでしょ?」
カーテンの隙間から漏れる、細い月明かり。
姿は見えないが、声のする場所の絨毯には、不気味に人影が映っている。
「分かってる、分かってるョ。キミのなくした大切なオモチャを探してくればイイんだよねェ?」
そのまま、影は猫背気味の姿勢でノアの方へと歩み寄った。
「そこまでだよ、セト」
闇に手の平を翳し、不快そうな顔でノアは続けた。
「汚いなぁー。前に言ったよね? 僕のそばまで来ないで、って」
「おっと。怒らない、怒らないでョ……。キミが嫌がると思って、こっちはわざわざ姿を消してるんだから。さてと、それじゃ、行ってきますョ。ヒヒヒヒヒ……」
乾いた風がノアの頬を撫でる。
そして、次に目をやった時、男の影は跡形もなく消えていた。
「やだな。アイツが来たから服が臭くなっちゃったじゃん。さぁ、どうするシヴァ? 怯えてないで、早く帰っておいでよ」
血の香りが満ちた部屋の窓を開け、ノアは一人きり、夜空に浮かぶ月を愛でた。
森の川辺で一人膝を抱え込み、シヴァは霞んだ空を見上げた。
「私は、何をしているのだろう」
風に揺れる紅い耳飾り。短く不揃いな髪には今もまだ水の匂いが残っている。
「……分からない。クロウ、お前を道連れにしてしまった理由も」
彼女は視線を落とし、手の中で横たわるカラスに囁いた。
「!」
直後、近くの茂みが音を立てて揺れた。そして――。
「あら、こんな所に大きな迷子ちゃん」
「構うな」
現れたのは、舞台衣装のような格好の女。年は二十代半ばといった所だろうか。
警戒するシヴァを見るなり、彼女は小さく首を傾げると、すぐ隣の地面に腰を下ろして呟く。
「怖がらないで。一人きりなら、少しだけお姉さんとお話しない?」
微笑む女の口元が、月明かりを受けてチェリーピンクに色付いた。
○
冷たい石の牢獄で、ビアンカはぽつりと溜息をついた。
(噂のボディーガードのお出ましってか? 上等だァ。逃げんじゃねェぞ)
それだけ言い残すと、カムイは彼女を一人置いて何処かへ去っていった。
「逃げようとしたって、これじゃ無理でしょ」
小さなコマドリが頭にとまった。足元では、白いうさぎが丸い目を見開いて彼女を見ている。
洞窟に横穴を掘って作られた狭い空間。そこには、多くの動物達が放し飼いになっていた。
「……おいで」
ビアンカは手を差し伸べた。