「お話(仮)」
第7話 『二つの奇蹟(前編)』
「んもぅ、一体どうなってるの?」
戦闘機のエンジン音を遠くに聞きながら、全速力で石坂を駆け下りる。
どうにか難を逃れたようだ。クリスは丘の中腹で足を止め、改めて周囲の景色を見回した。
「グレーシャちゃんや他の皆は大丈夫かしら?」
王城の方角で、夜空が激しく燃えている。
仲間達の安否が気掛かりだったが、とりあえずは現状を把握する必要があった。
まずは町へ行こう。そう思って歩き出した途端、ポケットから何かが落ちた。
――返しそびれていたチェリーピンクの口紅(ルージュ)。
「?」
坂を転がり落ちていく口紅を追いかけながら、クリスは新たな気配を察知した。見ると、木立ちの陰で女が一人、うつ伏せになって地面に横たわっている。
「ちょ、ちょっと! 撃たれたの!? しっかりして!!」
咄嗟に駆け寄って女を抱き起すクリス。だが、そこで彼は自身の手についた大量の血に気付いた。
すると、女の唇が微かに動き、今にも消え入りそうな声で彼女は言った。
「たす、けて、くださ……い。この子……、サラ……を……」
女はそこで静まり、糸の切れた花飾りが彼女の首から地面に落ちた。
直後、力の抜けた腕の下にのぞく小さな頭。
「もしかして、子供を庇って……」
年は七、八歳前後だろうか。衝撃で気を失っているものの、目立った怪我はない。
生きている。その命の温もりを確かめるように、クリスは両手で少女の体を抱き上げた。
○
「あいつ……生きてるのかなあ?」
自室のベッドに寝そべったまま、そっと片手を壁際に伸ばしてノアが囁く。
硬い石壁に刻まれた多数の傷跡。
よく見ると、それらは規則的に並んでおり、まるで何かを数えているようにも思えた。
「まぁいいや。どっちにしろ、“この世界”からは消えたみたいだし」
「全てを呑み込むdarkness……ゾクゾクしちゃう」
その傍らでキャシーが口を開き、ノアの左耳、紅い珠のピアスに映った艶やかな唇が尋ねる。
「それで、あといくつ必要なんですの?」
「三つ」
壁の傷をなぞりながらノアは繰り返す。
「明後日までに、あと三つ。もう誰でもいいから、キャシーが揃えてよ」
「Umm、そうしたら、どんなご褒美を下さるのかしら?」
「何でもいいよ。キャシーの好きな物、何でもあげる」
淡々とそう返すノアの瞳は、天蓋の向こうの、何処か遠い所を見ているようだった。
「……Meは、ノア様の全てが欲しゅうございます」
吐息交じりにそう答えた後、彼女は背後からノアの体に両腕を回す。
「?」
その時、ふいに部屋の扉が開かれ、カーテンの外側に現れる長身の影。
「シヴァが目を覚ましました。お会いになりますか?」
クロウの声が単調にそう告げた。
「そうだね。二人共、下がっていいよ」
冷たく突き放され、離れ際にキャシーはノアの耳元に溜息を吹きかけて呟く。
「そうやって、ノア様はいつもシヴァの事ばかり気になさるのね」
「仕方ないじゃん。だってそうでしょ?」
「……」
そのまま彼女は口を閉ざし、クロウと共に扉の外へ姿を消した。
途端に静まり返る寝室。
孤独で無音の時間がしばらく過ぎた頃、ノアはふと部屋の片隅に意識を傾け、そして言った。
「やっと二人きりで話が出来るね…………シヴァ」
静かな夜の明かりが、長い回廊の絨毯を紅く照らす。
「お邪魔でしたか?」
「No problemよ。それより、ノア様に頼りにされて、youはいつも忙しそうね」
笑顔で返し、歩きながらキャシーはいつかと同じ白い紙包みを取り出して続ける。
「ただでさえ丈夫じゃないのに、無理してばっかり……。このままじゃ壊れちゃうわよ?」
「それは貴女とて同じ。ノア様という花に固執するあまり、その棘の餌食にならぬよう御注意を」
片手で包みを受け取り、クロウは足早に彼女の前から去っていった。
その背中を見送った後、薄闇の中でキャシーは静かに微笑む。
「No。蝶の餌になる花はyouよ、クロウちゃん」
深紅の天蓋布を隔てて向かい合う、二つの同じシルエット。
息の詰まる沈黙を破り、先に口を開いたのはシヴァの方だった。
「……私が、間違っていた」