「お話(仮)」
店の扉が突然開き、飛び出してきた人物の頭がクリスを直撃した。
弾みで地面に転がり落ちる真新しい口紅(ルージュ)。
「だっ……大丈夫?」
強打した額を押さえながら、クリスは目の前に倒れている相手に手を差し伸べた。
少女――だろうか。深めにかぶった真っ赤なテンガロンハットからは、目の下のほくろと、左右に束ねられた太い栗色の三つ編みが覗いている。
「打ち所が悪かったらどうしましょう……。ねぇ、大丈夫?」
屈んで口紅を拾い上げ、少女の肩を揺さぶるクリス。
すると、そんな彼の鼻先で帽子がふわりと風にめくれ、直後、静かに少女は目を開けた。
「…………」
至近距離で見詰め合ったまま、一瞬、二人の中の時間が止まった。そして――。
「クリスぅぅぅ!!」
思いきり両腕を広げ、クリスの胸に飛び込む少女。
「会いたかったわ、クリスぅ! 私、ずっとずっと待ってたのよ!!」
「ちょ! ちょっと、人違い……」
「あぁ、やっぱり私達、こうして結ばれる運命だったのね」
困惑するクリスを余所に、彼女は何度もその頬に濃厚なキスを贈った。
「……クリス。あんた、そういう男だったんだね」
「違うのよグレーシャちゃん。誤解よぉ」
「シヴァがいたら激怒だね」
口紅のついたクリスの横顔を軽く指であしらい、呆れ顔でグレーシャが呟いた。
「そうだわ」
一言そう叫ぶや否や、跳ね起きた少女の頭突きが、今度はクリスの顎に命中する。
「私、クロちゃんを探してたんだわ」
「クロ?」
唐突な話の流れに、揃って顔を見合わせるクリスとグレーシャ。
「そうよ。クロはね、とーっても賢い鳥さんなの」
「なっ、ちょっと待った! その鳥の“クロ”ってヤツは、まさか……」
グレーシャの脳裏を漆黒の影がよぎり、途端にその目つきが変わる。
「あ、あんた、あいつと一体どういう関係なんだい?」
「クロは私のお友達よ。今日は朝から姿が見えないの。もう、どこへ行っちゃったのかしら〜?」
そう言って、ぐるりと辺りを見回す少女。
直後、彼女はこちらに近付いてくる複数の人影に気付いた。
「どうしたの?」
「いいえ、何でもないわ。さぁ、一緒にクロちゃんを探しに行きましょう!」
そのまま少女は半ば強引にクリスの腕を掴むと、笑顔で細い裏道へ駆け込んだ。
「もう、何がどうなってんのさ?」
訳が分からぬまま、グレーシャもまたマリアを連れて二人の後を追いかける。
そんな一行の後ろ姿が路地の先へ消えて間もなく、入れ違いで現れる黒服の集団。
「見失ったか」
しばらく周囲を探し回った後、男達は互いに首を横に振って肩をすくめた。
「全く、また勝手に抜け出して。少しは自分の立場ってのを分かって欲しいもんだよ」
「いつもいつも、うちの姫さんには手を焼かされるね」
晴れ渡った空の下、溜息がひとつ風に乗って空へ消えた。
「風が気持ちいいわね」
長い上り坂の途中で立ち止まり、少女は空を見上げて目を細めた。
そよ風に乗って、青空をはぐれ雲が泳いでいる。
「ホントね。穏やかな空だわ」
「……なんか、あたいらどんどんコイツのペースに流されてるかも」
ぼんやり空を眺めるクリスを横目に、がくりとグレーシャが肩を落とす。
「それでね、時計台の広場でお花をつんで、出来た首飾りをママにあげたの」
道すがら、少女は脈絡のない話を繰り返した。
昔、この丘の上には赤い屋根の時計台があったこと。春になると一面に野の花が咲き乱れること。そんな取りとめのない事を、彼女はとても嬉しそうに語るのだった。
「ママったら喜んで、広場に集まってた町のみんなに首飾りを自慢してたわ」
そう言って、あどけない表情で微笑む少女。
年齢こそ読めないが、顔に似合わない濃い色の口紅が、逆に彼女を幼く見せていた。
「あら。その広場へ行けば、町の人達とも会えるかもしれないわね」
「もう、クリスったら。全部昔の話よ」
笑顔で一言そう返し、少女はそのまま丘を一気に駆け上がる。そして……。
「ついたわ」
急かされながら彼女に追いつき、坂の頂上でクリスはゆっくりと顔を上げた。
「…………」
――瞬間、彼は言葉を失った。
広場も時計台も何もない。そこにあるのは、ただ丘を埋め尽くす無数の十字架だけだった。
「……どうして」
「戦争のせいよ」