「お話(仮)」
「ならば、ケモノにこれ以上関わるな」
雲間にのぞいた月の下、その深い緋色の目に見入られてクリスは言葉を失った。
言い知れぬ孤独を秘めた、ひどく哀しげな瞳だった。
まるで、人のそれとは異なる『何か』――。
「アナタは、“紅い獣”なの?」
「違う!」
強い口調で否定し、彼女は真っすぐクリスを見詰めたまま小声で続けた。
「違う。私は……」
と、その時。二人は近くの茂みに小さな気配を感じた。
敵か? だが、それにしてはあまりにも無防備すぎる。厚い雲が立ち込める中、クリス達は相手の動きを探るように、気配のした方向に意識を傾けた。
刹那、茂みが激しく揺れ、そこから飛び出した謎の人影。
「あかいケモノめ! 覚悟しろ!」
勢いよくクリスの前へ駆け寄るや否や、その者は手にした“武器”をクリスの腰に当てて叫んだ。
「よくも、ロキ兄ちゃんを殺したな! ゆるさないぞ!」
「ちょっと、誤解よぉ。……でも、悪いけど“それ”じゃアタシは倒せないわよ」
困ったように呟くクリスの頭上で、ふいに雲間からのぞいた月がその人物の姿を照らし出す。
それは、まだ幼い少年だった。
小さな両手に握りしめた定規をクリスに突きつけたまま、少年は悔しそうに唇を噛む。
「あら?」
肩まで伸びた栗毛を首の後ろで束ね、どことなく品の良さがうかがえる身なり。そんな少年の服装に、クリスは心当たりがあった。
「確か、パトリシア姉さんの所の……」
それは、十歳になる姪が通っている学校の制服と同じものだった。おそらく年も同じ位だろう。
「知り合いか?」
少女の問いに首を振って返すと、クリスは膝を曲げ、少年と同じ目線の位置で微笑む。
「坊や。さっき“紅い獣”って言ってたわよね? それならアタシ達と目的は一緒。仲間だわ」
あえて“達”の部分を強調しつつ、クリスが少年の前に右手を差し出す。
少年はしばらく黙って見ていたが、ひとつ頷くと、クリスの手を力強く握り返して言った。
「うん。ぼく、オリバーって言うんだ! お兄ちゃんたちは?」
「アタシはクリスよ。それから……」
そこで一旦言葉を止め、傍らに立つ少女を見上げてクリスは笑う。
「そろそろ教えてもらってもいいわよね? アナタの名前」
すると、彼女は少しためらった後、短く一言“シヴァ”と答えた。
○
同じ頃、とある屋敷では大変な騒ぎが起きていた。
「あぁぁ……オリバー坊ちゃん。こんな時間になってもお戻りにならないなんて……あぁぁ」
慌ただしく行き交うメイド達の中、一際激しく取り乱す少女がいた。彼女はつい先日、オリバーの家庭教師として屋敷にやってきたばかりだった。
「わたしが、もっとしっかりしていれば……あぁ……」
すると部屋のドアが開き、羽帽子を目深にかぶった貴婦人が姿を見せた。
「奥様ぁ。申し訳ございませんっ。全てはわたしの責任なんです……。昼間、お庭で遊んでいた時にわたしが目を離したばっかりに……」
「そんなことないわ、コウミちゃん」
今にも泣き出しそうなその少女、コウミの肩にそっと手を当て、婦人の唇が上品に微笑む。
「あの子はあの子のやりたいようにしているだけ。あなたの責任じゃないわ」
優しい声色につられるように、自然とコウミの表情も和む。
その後、一呼吸置いてから、突如コウミは立ち上がって言った。
「わたし、探しに行ってきます!」
「……そう。この子、アナタの家庭教師さんの飼い猫ちゃんだったのね」
オリバーの腕の中で、猫の首輪についた珠飾りが光る。
「ロキ兄ちゃんはすごいんだよ。得意の早撃ちで、どんな相手だってあっという間にやっつけちゃうんだ。……死んじゃったけどね」
寂しさに目を伏せる少年の心を映すかの如く、辺りを沈黙が支配する。
そんな中、口火を切ったのはクリスだった。
「さぁ、それじゃ帰りましょうか。きっと今頃、おうちの人が心配してるわよ」
促すように、オリバーの肩に手を乗せて微笑むクリス。
――その時。彼は周囲に新たな気配を感じた。
「と、言いたい所だけど、一足遅かったようね」
オリバーを庇う位置に立ち、鋭い眼差しで背後の茂みを注視するクリス。
同時に茂みが激しく揺れ、そこから一匹の雄熊が牙をむいてクリス達の前へ躍り出た。
「クマだ!」
「そうね、ただの熊……」
襲い来る相手の様子を窺いながら、その後、クリスは付け加えるように言葉を続けた。
「正確には、“ただの操られた熊”……かしら?」