「お話(仮)」
すぐ目の前に立ちふさがるレンガの壁。無造作に捨てられた多数のゴミ袋。しかし、肝心の少女の姿はどこにもなかった。
「消えた……?」
首を傾げるクリスを嘲笑うように、すぐ脇の塀の上で一匹の黒猫が鳴いた。
同時に、クリスの脳裏を再びあの情報屋の言葉が巡る。
(化け猫さ。飼い主を失った黒猫が、少女に化けて町を彷徨ってるんだとよ)
生ぬるい風を首すじに感じながら、クリスは低く笑った。
「早速お出まし、ってワケ?」
○
あれから一体どこをどう歩いたのだろうか。動き回る黒猫を追いかけて町を文字通り“彷徨う”うちに、いつしかクリスは町外れまでやって来ていた。
「どこ行っちゃったのかしら?」
猫を見失い、ぐるりと周囲を見渡すクリス。前方には、夜の森が不気味に広がっていた。
「おい。こんな所で何をしている?」
ふいに遠くで呼び止められ、声のした方へ顔を向けた彼の視界に、森の入口で銃剣を抱えて立つ二人の衛兵風の男が映る。
目を凝らしてよく見ると、そのうちの一人の男の足元には、あの黒猫の姿があった。
しかしそれも束の間、猫はクリスを誘うかのようにチラリと後ろを振り向くと、そのまま溶けるように黒い森の奥へ消えていった。
「待って!」
「待つのはお前だ。怪しい奴め」
身を乗り出した途端、目の前で男達の銃剣が交差し、クリスの行く手を阻む。
「んもぅ。ここを通して!」
「部外者を通行させることは、ゴルゴンゾーラ様より禁止されている。何よりこの先は危険だ」
クリスの鼻先で、銃身に施されたゴルゴンゾーラ社の紋章が鈍色に光る。
「……それなら大丈夫よ」
ひとつ息を吐くと、クリスは立てた二本指で相手の武器を挟むと、それを軽く手前へ押した。
次の瞬間、二丁の銃剣が音を立てて地に落ちる。
「警備ご苦労さま。ゴメンなさいね、アタシ先を急ぐの」
そう言い残し、彼は森へと入っていった。
「な、何だ?今のヤツ」
「あの口調。それに、あの得物……ひょっとすると……」
去りゆくクリスの背中。そこで揺れる長い棒のような武器を指差しながら、男のうちの一人が思い出したように呟く。
「クリストファー・ロンド。名門ロンド商会の一人息子……だったんだが。まぁ、色んな意味で、俺が前にいた業界じゃ名の知れた男だよ」
冷たい北からの風を受けて木々がざわめく。
暗い夜更けの森の奥深くに、周囲の少しひらけた場所があった。
そんな広場の真ん中にたたずむ黒猫が一匹。そのガラス玉のような瞳の中では、この辺りで一際大きな杉の老木が揺れていた。
「今度こそ、つかまえたわ」
隙をついて茂みの中から飛び出したクリスが、瞬時に猫を捕獲する。
「さぁ、それじゃ教えてもらおうかしら? アナタの名前は? どこから来たの?」
至近距離に唇を近付けてクリスが問う。しかし、猫の反応はない。
「恐がらないで。さっきお話した時みたいに、アナタの可愛い声を聞かせてちょうだい」
――すると。
「お前は猫の言葉が分かるのか?」
静寂の中、昼間の少女の声がそう言った。――が、その声はクリスの背後からだった。
「えっ?」
意表を突かれて振り返ったクリスの目に、すぐ後方で腕を組み、大樹にもたれた格好で立つあの少女の姿が飛び込む。
「猫ちゃんが……二人……?」
「一体何の話だ?」
半ば呆れた表情で、少女がクリスとの距離を詰める。
「まぁいい。用があるのはこっちの方だ」
そう言ってクリスの手から猫を抱き上げると、彼女は身を翻し、再び何処かへと歩き出した。
「待って! アナタには聞きたいことがあるの!」
ひとつ息を吸い、闇に消えかけた少女の後ろ姿にクリスは問うた。
「アナタ……“紅い獣”を知ってるわよね?」
その言葉に、一瞬、少女の動きが止まった。
吹きつける風に髪を躍らせながら、クリスは続ける。
「殺されたのよ。アタシの父さん、三ヶ月前、奴らにね」
「……」
「以来ずっと、父の仇の情報を探してたんだけれど……店でのアナタの反応、何かあると思ったわ」
対峙する二つの影。長い沈黙の後、少女は静かに口を開いた。