「お話(仮)」
「何だか、霊的な気を感じる場所だ」
「……」
ほんの少しの距離だが、先を行くクリスの耳に彼女の声が届いているのかは定かではない。
「クリス」
聞こえてないならそれで構わなかった。その後、シヴァは囁くような声でクリスの背に問うた。
「何故、蒼炎の鬼をおびき寄せる餌に私を選んだ? 鬼の好物であるという“赤い服”。そんな寓話を信じるのか? それとも……」
そっと右手を前方に翳し、その後、彼女は歩みを止めた。
「……お前は気付いているのか?」
たちまち視界から消え去るクリスの姿。孤独な白い闇の中、シヴァは俯く。
「?」
刹那、雪の中から伸びた腕が彼女の眼前に現れ、そして――。
「大丈夫よ」
笑顔でクリスは繰り返す。
「大丈夫。アタシ達ならきっと出来るわ」
すると、少しの沈黙を挟み、シヴァは伏し目がちに首を横に振って呟いた。
「クリス……。違う、私は、お前が考えているような人間ではない」
「あら。アタシは…………」
猛烈な吹雪が、その言葉をかき消した。
「そうだわ。コレ」
その後、ふいに懐から何かを取り出すと、それをシヴァの手に握らせてクリスは続ける。
「村で見つけたの。雪山で遭難しないように、この地方の人達が身につけるお守りなんですって」
手の中で鈍色に光る、小さな根付の鈴。そっと揺らすと、微かながらもよく通る音がする。
「お揃いで買ったのよ。万が一、はぐれた時の合図にしましょう」
そう言って、クリスは自身の手元の鈴を短く鳴らしてみせた。
遠くの雪崩の音で目を覚まし、コウミは慌てて周囲の様子を窺った。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。クリス達が出て行った時から山小屋に目立った変化はなく、薪の燃える乾いた音だけが単調に響いていた。
そして隣の席に目線を移すと、そこには宿題の絵日記と、色鉛筆を握ったままテーブルを枕に寝ているオリバーの姿があった。
「お疲れだったんですね」
描きかけの鬼の絵を横目に、彼女は荷物の中から取り出した毛布をオリバーの肩にかけた。
まどろみの中、肌に触れる毛布の柔らかさ。
我が家の匂いと共に、少年の夢の中で再び母親の記憶が蘇る。
――丘の上で、赤いドレスのお姫様は、ぐるりとあたりを見まわしました。
ところが、どこをさがしても青鬼の姿はありません。
「一体、どこに鬼の居城があるんだ?」
頂上付近の雪原に差し掛かった頃、赤いコートのシヴァはふと足を止めた。
吹雪はとどまる所を知らず、身を切る寒さにも関わらず、その頬を披露の汗が伝う。
「そうねぇ、生き物みたいに動き回る相手なら、いっそ呼んでみたらどうかしら?」
――そこで、お姫様は目をとじて、心の中で鬼に呼びかけました。
「蒼炎の鬼よ……。お前の好物は何だ? 私は、ここだぞ……」
鋭い眼差しでシヴァが呟く。
ただ、果てしない雪原だけを映し出す緋色の瞳。しかし、待てども鬼が現れる気配はなく、その後、彼女は諦めて身を翻すと、少し先で手招きをしているクリスのもとへ駆け出した。
「……」
瞬間、ぴたりと吹雪が止んだ。
そして、それとほぼ同時に、シヴァは背後で“何か”を感じた。
――その時、急に空が暗くなって……お姫様の目の前に、大きな大きな青鬼が現れたのです。
ゆっくりと振り向いた彼女の目に映る、不気味に曲がった二本角。
途端にシヴァの顔から血の気が引いた。
「……蒼炎の……鬼?」
純白の世界を蝕む蒼い影。そこには、氷の城を背にした巨大な異形の鬼が立っていた。
○
山小屋の暖炉脇に寝転がり、すっかり夢の世界を満喫中のグレーシャ。
ふと、そんな彼女の上に人影が差し、ゆらめきながら、たちまちそれは巨大な蝶の形と化した。
「むにゃー〜……」
無意識下で、グレーシャはその気配を避けるように寝返りを打った。
「!」
次の瞬間、膨れ上がった殺気と共に、周囲に鈍い音が鳴り響く。
「な、何があったんですかぁ? 今の音……」
コウミ達が駆け付けた時、グレーシャ、そしてマリアの姿はどこにもなかった。
「大変だ。どうしよう……。クリスお兄ちゃんと約束したのに」
「落ち着いて。坊ちゃん、あれを見て下さいっ」
頭を抱えて屈み込むオリバーの脇に立ち、珍しくしっかりした口調でコウミが窓の外を指差す。
雪の上に残された、何かを引きずったような跡。そこにはうっすらと金色の粉が散っていた。
「なんだろう? これって……鱗、粉?」
雪ごと粉をすくい上げ、しばらく匂いを嗅いだり眺めたりしていたオリバーだったが、そのうち何やら独り言を呟き始め――そして、突如顔を上げて言った。
「そうか、分かったぞ!」
巨大な鬼と対峙したまま無音の時が流れた後、拮抗を破ってクリスが口を開く。
「アナタが、蒼炎の鬼ね」
不思議と恐怖は感じなかった。
シヴァを庇うような位置に立ち、真っ直ぐに相手を見詰めてクリスは続ける。
「アナタに会いに来たわ。これがその証拠よ」
高く掲げられた『蒼炎の書』。
すると、鋭い鬼の爪がゆっくりとクリスに迫り、そして――。
「?」
その指先が巻物に触れた刹那、青白い火柱が一瞬にして書物の紐を焼き尽くし、立ちのぼった煙と共に、鬼は忽然と姿を消した。
「試練はこの先ってコトみたいね」
紐の切れた巻物をほどくと、そこには見たこともない石の文字がびっしりと記されていた。
「シヴァちゃん、大丈夫? 行けそう?」
クリスの問いにシヴァは小さく頷き、そのまま二人は並んで氷の神殿へと足を踏み入れた。
――静まり返った空間。内部は空虚で、祭壇のような物以外は何もなかった。
クリス達は神殿の中央部に位置する祭壇に歩み寄った。冷たい床に二人の足音が木霊する。
「これは……」
壇上でゆらめく蒼い炎。クリスは氷の階段を上り、導かれるようにそっと炎に手を翳した。
瞬間、目の前が真っ暗になった
その後、徐々に闇に慣れだした彼の目に映る、見覚えのある情景。
「と、父……さん?」