「お話(仮)」
「クリス!?」
シヴァが駆け出すも、刹那、頭上から黒い影が差し、その動きを阻むかの如く、彼女のすぐ前方に降り立ったクロウが冷ややかに笑う。
「おやめなさい。この先へ行けば、恐らく自我を失ったグレーシャは貴女を殺すことでしょう」
「どけ、クロウ」
「おやめなさい。これ以上、自らの運命に抗うのは」
音もなく背後へ回り、伸ばした手でシヴァの長い髪を撫でながら、彼女の耳元でクロウは囁く。
「髪を下ろしたその姿、身震いがしますよ」
「言うな……っ!」
唇を噛んで首を横に振るシヴァ。するとクロウはそんなシヴァの頬に右手を添え、愛しげにその白い肌を撫でて言った。
「帰りましょう…………ノア様」
直後、シヴァは大きく前方に跳ぶと、黙って両手にナイフを構えた。
「……それが、貴女の答えですか」
クロウは俯いた。口元に、不敵な笑みをたたえながら。
ウミネコが一羽、真上の空ではばたいた。
と、同時に髪を振り乱したグレーシャが、地を這いながら高速でシヴァに迫る。
醜い鱗で覆われたその頬を、血の色をした涙が伝う。
「哀れだな。獣の末路など皆同じ」
一言そう呟き、両手に構えたナイフを一気に放つシヴァ。ところが、それらが鱗に触れる間際、大蛇の尾が大きく風を切った。
「!?」
見る間にナイフは軌道を変え、シヴァの方へと襲い掛かる。咄嗟に後退するが、運悪く床に転がっていた投網に足を取られ、彼女は思わず地面に両手をついた。
「っ!」
瞬間、激しい衝撃音が辺りに響き渡った。
わずかに血が滴り落ち、木造の船板を朱に染める。
「クリス? お前……」
シヴァが顔を上げると、そこにはクリスが立っていた。脇腹に血が滲んでいる。
にっこりとシヴァに微笑むと、クリスは大蛇グレーシャを見据えて地を蹴った。
高く宙を舞いながら、落下の勢いで大鎌を振り上げ、クリスが標的めがけて斬りかかる。しかし、グレーシャはその太い尾でクリスの体を弾き返すと、そのまま彼の喉元めがけて牙をむいた。
クリスは身をよじって攻撃をかわし、連続して繰り出される敵の牙を鎌の柄で防ぐ。
「くっ……ちょっとキツイわね……」
激しく動いたせいもあり、既に毒は彼の全身に蔓延していた。武器を握る手からは血の気が失せ、細かく震えている。
「もういい。それ以上動くな」
異変を察したシヴァが甲板を走るが、彼女が駆け付けるよりも一足早く、グレーシャの長い尾がうねり、シヴァの目の前でクリスの体を締め上げた。
「クリス!!」
すぐさまナイフを投げるシヴァ。しかし、相手の硬い鱗の前にそれらは空しく弾かれた。
クリスの腹から血がほとばしる。声がかすれて声にならなくなった。
その時、海の彼方で何かが光った。
二人は揃って光の方角を見た。刹那、水平線の近くで差した閃光が視界を金一色に染める。
「……マリア?」
二人は我が目を疑った。海面を滑るようにこちらへ近付いてくる巨大な金色の魚。そして、その背に颯爽と立っている少女。それは、紛れもなくマリアだった。
一同の見詰める先で巨大魚が豪快に跳ねる。その反動でマリアは宙へ舞い上がると、微動だにせず甲板に着地した。
硬直した空気の中、マリアは大蛇と向き合い、手中の『GREENEST』を天高く翳して言った。
「在るべき姿に還りなさい」
大蛇はしばしの間、目を細めてそれを見ていた。すると、徐々にその瞳から攻撃色が消えてゆき、クリスを締め付けていた尾の圧力が緩む。
「これは、一体……?」
自力で這い出し、不思議そうに呟くクリス。そんな彼の前で、『GREENEST』は輝きを増していった。そして、光の中でマリアは声を張り上げた。
「悪しき力よ、この者の中から立ち去れ!!」
眩い光はとどまる所を知らず、瞬く間に船全体を呑み込んだ。
光が海に散った頃、クリス達はようやく目を開けることが出来た。
騒ぎに紛れて去ったのだろうか。既にクロウの姿はどこにもなく、代わりに船尾ではグレーシャが人間の体で倒れていた。
「何が、起きたんだ?」
甲板に座り込んだまま、静けさの中でシヴァが首を傾げる。
「そうね、よく分からないけれど、とりあえず……シヴァちゃんが無事で良かったわ」