「お話(仮)」
刹那、すぐ傍でクリスの声が響き、振り返るよりも早く、伸びた腕が彼女の身動きを封じる。
「んもぅ、さっきからアタシだけ置いてけぼりにしないでよ」
そう言うなり彼はグレーシャを背中に担ぐと、勢いをつけてその体を上空へ投げ飛ばした。
「ぃ……ったー〜〜」
舳先近くまで飛ばされ、打ちつけた額をさすりながら上体を起こすグレーシャ。
と、そんな彼女の首筋に鋭く冷たいものが当たった。
「勝負あったな」
ナイフを突き付けたまま相手を見下ろし、シヴァが呟く。
硬直した時間が何秒か過ぎた後、ふとグレーシャはその場でひとつ長い息を吐いた。
「あ〜ぁ。やっぱ、人間の状態じゃ勝てないか」
「ならば何故、獣の姿にならなかった?」
シヴァが問う。すると、グレーシャは観念した様子で両手を挙げて言った。
「そりゃ、好きな男の前じゃさ……キレイなままでいたいだろ?」
「!!」
突如、身を刺すような緊張感がシヴァを襲った。
「……クロウ、やはり黒幕はお前か」
潮風に揺れる漆黒の髪。俯き加減に腕を組んだ姿勢で、クロウはふと目線を上げると、船尾からそっと片手をグレーシャの方へ伸ばして微笑む。
「悪いね、クロウ。今回は失敗。また出直すことに……」
「いいえ、全て予定通りですよ」
クロウが指を鳴らす。
と、次の瞬間、グレーシャの手の刺青から勢いよく紅い煙が吹き出した。
「なっ! 約束が違う……よ!?」
絞り出すような叫び声も、煙に巻かれてすぐに聞こえなくなった。
そして程なく、煙の中から姿を現す一匹の大蛇。
見るからに相手を威嚇するような鮮やかな山吹色の鱗が、海の青と対比する。
「ちょっと、ねーぇ。今のはヒドイんじゃないかしら?」
理性を失った大蛇を憐れみの眼差しで見詰めて、クリスが口を開く。
「弱者は強者の前に、その存在価値すら奪われる。それが我々獣の理(ことわり)」
淡々とした口調でクロウは続ける。
「そして、もうひとつ。今回は貴方に、我々“紅い獣”の更なる姿を見せて差し上げましょう」
「まさか……? やめろ、クロウ!!」
止めるシヴァを傍目にクロウは目を閉じると、右手に意識を集め、もう一度指を鳴らした。
刹那、凄まじい呻き声と共にグレーシャの体が再び煙に包まれ、そして――。
「これが……グレーシャちゃん……?」
驚きの表情で相手を見据えるクリスの顔に、高い位置から人の形の影が差す。
蛇のようにうねる髪の毛。鱗のような肌。その姿は、まさに神話の魔女“メドゥーサ”。
「人の知性と獣の戦力を兼ね備えた、いわば半獣の状態だ」
クリスの横でシヴァが状況を補足し、険しい表情で彼女はナイフを構えた。
「ああなっては、もはや自力で元の姿に戻ることは不可能だ」
「……戦うしかないってコトね」
先に動いたのはシヴァだった。素早く甲板を駆け、彼女は至近距離から立て続けにナイフを放つ。
しかし、その刃先が届くかの瀬戸際、幻影だけを残してグレーシャの姿が消えた。
先程までとは桁違いの速さだった。
「シヴァちゃん、後ろ!」
クリスの声に彼女が振り返ると同時に、風の如く接近したグレーシャが牙をむく。その速さこそ測り損ねたものの、辛うじてシヴァは攻撃を交わす。
少し離れた所まで退き、体勢を立て直すシヴァ。ふと、結い上げていた髪がほどけ、絹糸のような長い毛が潮風に揺れた。
「あらっ、かわいい」
反射的にクリスが視線をシヴァの方へと向けた、その隙をグレーシャは見逃さなかった。
「気をつけろ。そっちへ行ったぞ」
注意を促す声が届くより早く、グレーシャが滑るようにクリスの背後に回り込む。一方、クリスも八方眼でその様子を捉えており、タイミングを計って彼は武器の大鎌を薙いだ。
鈍い音と共に腹部の鱗に食い込む刃。
「?」
ところが直後、反動が衝撃となってクリスを襲い、両者の体が大きく後方へ弾き飛ぶ。
「何て頑丈なのかしら」
すぐに起き上がり、相手の状態を窺うクリス。鱗には攻撃の痕跡が残っているものの、敵は平然とした様子で立ちはだかっている。
「まだまだ、行くわよ」
クリスの『ローズ・マリー』が再度弧を描いた。
次いでグレーシャも動き、再び両者の距離が詰まる。
そして、今度は相手の頭に狙いを定め、クリスがやや高めの姿勢を取った――その時だった。
「?」
ギリギリの所でグレーシャが視界から消えた。
「なっ……そういうコトね……」
見ると、グレーシャが鋭い牙でクリスの横腹に噛みついていた。クリスがよろけて膝をつく。